水槽の底で恋をした
「……あいつ、また一人で弁当食ってるな」
春の午後、校舎裏の陰に咲いた雑草のように、日向遥は目立たない場所に座っていた。昼休みの喧騒から離れ、誰とも目を合わせず、音も立てずに、ただ機械のように口を動かしていた。
クラスでは“幽霊”と呼ばれている。
いてもいなくても同じ。誰の記憶にも残らない存在。
そんな遥に、俺――藤倉蒼太は、なぜか目が離せなかった。
中学のとき、一度だけ、遥の笑う声を聞いたことがある。
文化祭の準備中、偶然隣のクラスの廊下で、男子数人とふざけ合っていた。
ほんの一瞬の光。あの時の笑顔が、ずっと、頭から離れない。
だけど、今の遥は違う。
誰とも話さず、目も合わさず、まるで水槽の中の魚みたいだ。
生きているのに、どこか別の世界にいるような――。
そんな遥を、俺は、知りたかった。
触れたら壊れそうだと分かっていても。
遥の家に初めて行ったのは、六月の雨の日だった。
濡れた髪が張りついたまま、玄関の前で俺は靴を脱いだ。
「……上がって」
それだけ言って、遥は奥へと消えた。
無言の空気が、家中に染みついていた。
食器は洗われていない。
カーテンは閉じられ、電気も点けられていない。
腐りかけた食べ物とタバコの匂いが混じって、喉の奥に残った。
リビングの隅、ソファに寝転がっていた女が、うつろな目でこちらを見た。
「あんた、また友達ごっこ? 無駄だよ。あの子、人間じゃないから」
そう言って女は笑った。遥の母親だった。
遥は何も言わなかった。
ただ、黙って俺の袖を引いて、自室へ誘導した。
そして、ポツリと。
「……あそこ、地獄なんだよ」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
遥が中学のとき、自殺未遂をしたという話を、保健の先生から聞いた。
家庭の問題、いじめ、性的な嫌がらせ――全部、重なっていた。
「誰にも、助けてって言えなかったんだろうな」
そう言った先生の目も、どこか遠くを見ていた。
“過去のこと”として処理された遥の痛みを、誰ももう気にしていない。
けど、あの日の遥の目を、俺は知っている。
まるで世界の全部を、もう一度拒絶していた。
俺は、どうしたらよかった?
抱きしめればよかった? キスでもすれば? そんな薄っぺらいもので救えるわけがなかった。
遥は、ずっと深いところで沈んでいた。
それは、恋なんかでは届かない場所だった。
でも、俺はそれでも、溺れていく覚悟をした。
夏の終わり、遥は一通のメッセージを残して、姿を消した。
「好きだった。だけど、君の愛じゃ、足りなかったんだ」
警察に届け出た。学校は騒ぎになった。
でも、誰も遥の行き先を知らなかった。
探し続けた。
俺の手は、血が出るまでドアを叩き、声が枯れるまで名前を呼んだ。
けれど、遥は二度と現れなかった。
――そして一か月後、海岸で、身元不明の遺体が見つかった。
指輪も、身分証もなかった。
でも、俺には分かった。
その左手薬指に、俺がくれた細いミサンガが結ばれていたから。
「遥、どうして、置いていったんだよ」
夜の海で、俺は一人、何度も名前を呼ぶ。
返事はもうない。
だけど、あの日の微笑みだけが、今も胸を締めつける。
君のすべてを、愛してた。
でも、君の痛みを、全ては背負えなかった。
それが、俺の罪だ。
遥の部屋に残された日記帳の最後のページに、こんな文字があった。
「誰にも見つけてもらえないなら、せめて、君に見つけてほしかった。」
もういない君を、俺は今も探してる。
見えない水の底に沈んだ声を、今日も、夢で聞いている。
春の午後、校舎裏の陰に咲いた雑草のように、日向遥は目立たない場所に座っていた。昼休みの喧騒から離れ、誰とも目を合わせず、音も立てずに、ただ機械のように口を動かしていた。
クラスでは“幽霊”と呼ばれている。
いてもいなくても同じ。誰の記憶にも残らない存在。
そんな遥に、俺――藤倉蒼太は、なぜか目が離せなかった。
中学のとき、一度だけ、遥の笑う声を聞いたことがある。
文化祭の準備中、偶然隣のクラスの廊下で、男子数人とふざけ合っていた。
ほんの一瞬の光。あの時の笑顔が、ずっと、頭から離れない。
だけど、今の遥は違う。
誰とも話さず、目も合わさず、まるで水槽の中の魚みたいだ。
生きているのに、どこか別の世界にいるような――。
そんな遥を、俺は、知りたかった。
触れたら壊れそうだと分かっていても。
遥の家に初めて行ったのは、六月の雨の日だった。
濡れた髪が張りついたまま、玄関の前で俺は靴を脱いだ。
「……上がって」
それだけ言って、遥は奥へと消えた。
無言の空気が、家中に染みついていた。
食器は洗われていない。
カーテンは閉じられ、電気も点けられていない。
腐りかけた食べ物とタバコの匂いが混じって、喉の奥に残った。
リビングの隅、ソファに寝転がっていた女が、うつろな目でこちらを見た。
「あんた、また友達ごっこ? 無駄だよ。あの子、人間じゃないから」
そう言って女は笑った。遥の母親だった。
遥は何も言わなかった。
ただ、黙って俺の袖を引いて、自室へ誘導した。
そして、ポツリと。
「……あそこ、地獄なんだよ」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
遥が中学のとき、自殺未遂をしたという話を、保健の先生から聞いた。
家庭の問題、いじめ、性的な嫌がらせ――全部、重なっていた。
「誰にも、助けてって言えなかったんだろうな」
そう言った先生の目も、どこか遠くを見ていた。
“過去のこと”として処理された遥の痛みを、誰ももう気にしていない。
けど、あの日の遥の目を、俺は知っている。
まるで世界の全部を、もう一度拒絶していた。
俺は、どうしたらよかった?
抱きしめればよかった? キスでもすれば? そんな薄っぺらいもので救えるわけがなかった。
遥は、ずっと深いところで沈んでいた。
それは、恋なんかでは届かない場所だった。
でも、俺はそれでも、溺れていく覚悟をした。
夏の終わり、遥は一通のメッセージを残して、姿を消した。
「好きだった。だけど、君の愛じゃ、足りなかったんだ」
警察に届け出た。学校は騒ぎになった。
でも、誰も遥の行き先を知らなかった。
探し続けた。
俺の手は、血が出るまでドアを叩き、声が枯れるまで名前を呼んだ。
けれど、遥は二度と現れなかった。
――そして一か月後、海岸で、身元不明の遺体が見つかった。
指輪も、身分証もなかった。
でも、俺には分かった。
その左手薬指に、俺がくれた細いミサンガが結ばれていたから。
「遥、どうして、置いていったんだよ」
夜の海で、俺は一人、何度も名前を呼ぶ。
返事はもうない。
だけど、あの日の微笑みだけが、今も胸を締めつける。
君のすべてを、愛してた。
でも、君の痛みを、全ては背負えなかった。
それが、俺の罪だ。
遥の部屋に残された日記帳の最後のページに、こんな文字があった。
「誰にも見つけてもらえないなら、せめて、君に見つけてほしかった。」
もういない君を、俺は今も探してる。
見えない水の底に沈んだ声を、今日も、夢で聞いている。