二次創作
幽界の水のいろ
#1
「…あまりにあおざめた美しさなので気味わるがる人もいる。一名をユウガオビョウタンともいい、…日本的な幽霊の相がある。…その色彩はたしかに日の光によって生まれたものではない。月や星の光、いや、それはやはり幽界の水のいろなのであろうか。」
北杜夫『天の蛾』より
夏の頃。あの星月夜から、うまく寝付けないことが増えた。だから今日は暇潰しに好奇心も兼ねて、星座図鑑を片手に、夜空を望遠鏡のレンズ越しに見上げている。
この国は、他と比べ暗くなったり、店が閉まったりする時間が早い。自分がいつも早く寝る分、城の消灯時間が早く、国民もそれに合わせようとした結果だろう。(ルールブックで「紳士たるもの、早寝早起きを心がけよ」と定めていたのもあるかもしれないが)だから尚更、夜空は輝いて見える。
「あれが、へびつかい座」
トレミーの48星座の一つで、黄道上にあるが黄道12星座には含まれない、なんとも除け者のような存在。今、天上のアスクレピオスの目に浮かぶのはやはり涙なのだろうか。
その時、へびつかい座の中で一番明るく見えた星が、少しだけ霞んだ気がした。目が疲れたのか。目を閉じたり、わざと瞬きをしたりするが、特にそれといった以上もなく、結局ただの勘違いのように思えた。このまま目を瞑ってしまおうか? 結構、すんなり眠れるわけでもないのに。
改めて、望遠鏡に右目を押し当てる。上にはヘルクレス座、右にはてんびん座が見えた。ヘルクレスといえば、神話のとても強い英雄、といったイメージだったが、星座のほうはそこまで目立っていない。ただ、図鑑によると大きさはそこそこあるらしかった。ふと虚栄心、という単語が思い浮かぶ。
ただ、その栄えある星々の中でひときわ存在感を放つのは、まさに満月に差し掛かろうとする月だ。昨日よりも大きく見える。そういえば、あと一ヶ月もしたら月見の時期になる。そうか、夏が終わるのか。季節や思い出、過ぎていくものは残り時間が迫るにつれ速く見える。
そうすれば、秋の星座が見られる。あいにく星座には詳しくないし、何があったか───そう考えてみても、思いつくのはせいぜい朝のニュース番組でやっている星座占いぐらいだった。本当にそれしか思いつかなかったし、自分の星座以外はどれがどの月なのかも一切わからない。逆に、それら全てがわかるとしたら結構な占い好きか何かだ。
ああ、今夜も、眠りにつけないのか。外から撤収して、自室のベッドに潜り込んだはいいものの、一向に眠気の一つ感じない。確かに、空は綺麗だった。最近は晴れ続きだし、今夜はまだ暑さがマシで、きっと普段の自分だったら小躍りしていることだろう。
しかし、寝付けない。いつまで経っても、眠気は変わらず最低値を維持している。むしろ、考え事ばかりしているせいか頭が冴えてきたようにも感じる。時計を確認しようと思ったが、手元を明るくする必要があるし、それでまた眠れなくなるのも嫌だった。
こういう時、ピケロはどうするのだろうか。彼のことだから、研究をしていると嫌でも眠気が襲ってくるだとか、天井を眺めていればいいだとか、あるいは何も考えるなと言ってきそうだが、よくよく考えたら全て試していて、落胆のあまり肩を落とした(横になったままだったから、肩を落とすというより頭を垂れがくりとする感じだ)。
そうして、開けっぱなしの窓から見える空色が明るくなっていくのを見届けた。朝が来てしまった。ひとりの朝は、こんなに寂しかったか。
「(今日も眠れなかった)」
思えば、昨日からまともな睡眠をとっていない。今日に関しては徹夜だ。もしかしたら人生初かもしれない。目をこすり、眠気覚ましのため自身の頬に強烈なビンタを一発かましてやった。しかし勢いをつけようとしたのが不幸を招いたか、首筋あたりを爪でひっかいてしまい、うっすらとだがみみず腫れができてしまった。
どうしよう、どうすれば解決できる? 隠すか、覆うか───ああもう、どうだっていい!───猫にひっかかれたことにしよう。苦しい事実より、優しい嘘だ。
今のところ、誰にもバレていないはずだ。眠れていないこと、そのせいで頭がズキズキ痛いこと。立ちくらみもある。だが、品格を失うわけにはいかない、とひとさじの矜持と狂気で、なんとか意識を保っている。
今日の任務が終わったら、少し休みをもらおう。一日休めばどうにかなるだろうし、これでも免疫は強い方だという自負がある。正味、今まで一度もインフルエンザに罹ったことがないと言ったときは誰もが驚いていた。
そうすれば、きっと。この不安も払拭できるはずだから。
何日か前にも会った気がするが、今日は俺の方からタッサムに顔を見せようと思う。だがあくまでこれは建前で、実際はつい先日改良された『池の香り再現ドーナツ』の試食をしてもらうためだ。アルペックのお中元渡しで、騎士が直々に何かを渡すと説得力が上がるという仮説がほぼ実証された。ならばドーナツの穴を埋めるように、俺が直々にドーナツを渡し反応を確認することで、仮説を実説としようじゃないか! というわけだ。
片手に主観測用モニター、もう片手にドーナツを持ち、気分は概ね上々。雨が降っていないのが残念だが、これといった支障もないので、まあ良しとする。
出発時間もあってか、タキシードサム王国に着いたのは日が暮れてからだった。泊まり込みでプレゼンする予定なので、全くもって差し支えない。モニターで時刻を確認すると、20時をちょうど回ったところだった。彼が寝る前にせめて顔合わせだけでも、と思ったのだが、これは間に合うかどうか微妙なラインだ。
───待てよ、これぐらいの時間帯ならちょうど彼は帰宅しているんじゃないか? 城と家が近く、ほぼ住み込みで主の研究をしている俺とは違い、タッサムの家は割としっかりとある。そちらへ向かうのが最善手だ。
ただ、道がわからない。彼の家には一度か二度押しかけたのみで、道筋など全くもって記憶にない。ここは悔やまれるが、主の観測を一旦中断してルート検索をするしかない。モニターとは言っても、観測用に改造してあるだけで元はタブレットだ。備え付きの機能でどこまでできるか、試してみる。
しばらくして、聞き込みをしながらようやく家の前に辿り着いた。照明の明かりが漏れていないのを見るに、まだ帰宅していないのだろう。今から彼を探しに行ってすれ違う可能性もあるから、ここは大人しく待っているとしよう。
外もまだ蒸し暑いから、先に家へ上がることにした。合鍵なら持っている。欲しいと言ったらくれたのだが、なんだか危機管理が甘いような気もしなくはない(主と俺以外には軽率に渡すな、と伝えておいたが)。
鍵を開けると、いつもより部屋の空気が重い気がした。いつもと違い薄暗いからか?───いや、そんな理由ではなかった。玄関に入ってすぐの、足元で、人が倒れている。間違いない、タッサムだ。そばに駆け寄り脈拍の確認をする。浅く呼吸をしていた。よかった、まだ生きている。
ああ、どうしてこういう時に限って、君はこんなにも妖艶に見える? 心から救いたいはずなのに、身体と意識が途切れる間際がいっとう奇麗なものだから、一緒に滅んでしまいたくなる。そうして手放される命もあれば、その光の再来を願って舞い戻る命もある。まったく美人薄命とはよく言ったものだ。
昏倒のようなものなのだろうか。とにかく、その格好では暑いに違いない。だから、早く起きてくれ。背中に腕を回し、抱き抱えるような体勢で肩を揺すぶったり、呼びかけたりする。
うやむやだった意識が一瞬にして晴れる。ぼんやりとした視界のすぐ先に、ピケロらしき影が見えた。見るに、こちらを覗き込んで、何か叫んでいる……?
「───タッサム、タッサム!」
目をぱちくりとさせていると、彼は救われたかのような表情を見せて、瞬時に抱きしめてきた。意識が戻ったのに気付いたのだろうが、なんだか大げさな気もする。
しかし、どうやら事態は深刻らしい。抱き抱えられているからわかりにくかったが、光景からしてここは玄関口だ。帰って鍵を閉めたところまでは覚えているが、それ以降は───何もない。ここで倒れたようだ。
「ボクは、何を……」
「よかった。座れるか? どこか体を痛めているかもしれない」
言いなりに、壁に体を寄せて座る。幸い怪我はないが、ひどく疲れが溜まっていて、気を抜くと意識が落ちそうになる。首がかくりと落ちては、はっと跳ねる。
「今日はもう寝よう」
様子を察したのか、微笑みを浮かべ彼はこちらに語りかけた。少し揺れるぞ、と言い、体が持ち上がる。言うなればお姫様抱っこのような姿勢だ。普段なら恥ずかしさのあまり飛び降りているところだが、何故かピケロの腕の中は安心する。だが、どうにかしてベッドまでは起きていたい。キミに、おやすみを言いたいから。
寝室の場所を教えた覚えはないのだが、彼は迷いなくボクをベッドまで連れて行った。つくづくとんでもない男だと思う。
「主のほうには俺から連絡しておく。良い夢を」
「ん、おやすみ」
穏やかな陽光と生温い空気で目が覚めた。枕元でピケロがモニターをいじっている。集中してこちらに気付いていなかったようなので、後ろから頬をつねってやろうと思ったが、物音で振り返ってしまった。
「おはよう。まだ朝の5時だ」
「早すぎたか、寝たのが」
「ああ。それと」
まるで義務付けられた進捗報告かのように、彼は淡々と昨夜のことを説明する。主たちに状況を説明したところ、急遽一週間の休暇を与えられたこと。そしてその間、ピケロが看病することになったこと。
国の職務に関しては、護衛や研究員たちが代わってくれるから心配ないと聞かされた。
「無理が祟ったんだ」
「…………そうか?」
しれっと聞き返したボクを見て、驚きに呆れが混じったような顔をして
「俺が思うに、君は精神を摩耗させすぎた。あれから少しは心の開き方を学んだと思ったんだがね」
精神の摩耗? 肉体が限界を迎えた、のではなく。
彼の言うあれとは、確実に騎士学校での一件だろう。夏季休暇の真っ只中、高熱を出したあの───
──────
暑い。暑い。頭がくらくらする。気温が高いというより、たぶん発熱をしている。とりあえず、起き上がって体温を測らなくては……
「まずい」
ピケロが部屋に帰ってきた。この時間帯は寮にすらいないはずなのに。足音が近くまで迫り、ぴたりと止まる。次の瞬間、ガチャリと鍵の開く音がした。
「タッサム!? 顔が赤い、ひどい熱だ」
ひんやりするという理由だけで床に倒れていたボクを彼はひどく心配して、いろいろ手を焼いてくれた。理系だからか、対処も的確でわりと素早かったと思う。この頃のピケロは、今よりも多弁だったっけ。
しばらくすると友人たちが見舞いに来て、やれお大事にだの、無理するなだの、あるいは監視の目がようやく外れる(同じクラスなだけで監視したつもりなど微塵もない)だのつべこべ言われた。同じ話ばかり聞かされて耳にタコができそうだったが、そのおかげで確かに寂しくはなかったと思う。
───
「目の水色がゆらゆらと揺れている。今にも消えそうだ」
───これは後に、ボクが垣間見た学生時代のピケロの日記、というかメモ帳に殴り書いてあった一文だ。病状の記録として書いたようだが、これだけは彼にそぐわず小説的な書き口で記憶に残っている。
今のボクも、そんな風に見えているのだろうか。陽の光からは程遠く、陽炎のように浮かんでは消えそうになる、幽界の水のように。
ぼんやりと考えていると、自らの存在意義も、めくりめくる体調のように、ぐらぐら揺らいでくる。ぼんやりと、朝食を摂って、体調を記録して、また見上げる天井が同じ色になったときの失望といえば、まるで言葉に表しがたい。
「ここにいていいのかな」
無意識に漏れ出た言葉に、ピケロはボクよりも驚いた様子だった。しかし冷静に、目を合わせて言い切る。
「ああ。ずっと一緒だ」
とたんに、涙が溢れ出る。どうして? 抑え込んでもいないのに、勝手に、頬に涙が伝っていく。キミを過度に心配させたくないのに。涙を拭うボクを尻目に、彼は近くに擦り寄ってきて、頭を撫で、もう片方の手は腰に置いて離さない。
「よしよし」
「…………」
「よしよし」
一体何が起きているのだろうか。気付けば彼の胸の下にすっぽりと収まり、されるがままに頭を撫でられている。
不快というわけでもないが、かと言ってこのままではあまりに恥ずかしい。しかし、こうしているとどこか落ち着くし、もっと甘えていたくなる……
「っ、んん」
「———甘え上手になったものだ」
指摘されてようやく気付いた。自分が無意識のうちに、甘ったるい猫撫で声を出してしまっていたことと、ピケロの体に頭をぐりぐりと撫でつけて、完全に甘えられる姿勢になっていたことに。
そして今朝ついた首元の傷あたりをさすられ、決壊した。抱きしめられた温かさと、初めて感じた恋愛の暖かさに泣かされていた。今の二人に、どうか泣かないで、笑ってなどというお世辞は通用しない。27℃、共感覚の彼らが、ひとつ屋根の下で呼吸をし始めるのにはふさわしい日だった。
どうやら休養をとって、大人しくしているという対応は最適解だったらしく、一日目の時点で効果が現れていた。今ではだいぶ物事を冷静に考えられるようになったし、体調も快方に向かっている。
気分がいいなら、とピケロが外出を提案してきた。買い出しついでだと言うが、時刻は涼しい夜、ちょっとした散歩にもする予定だという。すぐに、ボクがリフレッシュできるようにと色々パターンを考えた末の提案だと分かった。快諾の声に、彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
外はニュースで聞いていた以上に冷えていて、しんとした大気を挟んで空には見慣れた星座たちが浮かんでいる。心地いい快晴だ。特技欄には必ず天気予報と書く男だから、確信犯か。
「涼しくなるのを見越していたのか?」
「そうでもなければ、こうしてわざわざ連れ出していないよ」
嘲笑混じりに返すのを見て、ここではいつものピケロに戻るんだな、と思う。ああして人を甘やかすとき特有の誘惑的な表情を見せるのは、ボクの前だけらしい。
人の気配がなくなった歩道を並んで歩いていると、街路樹に何かが停まっている。近くには行くが、俯瞰的に見るボクを差し置いて、ピケロはかなり接近しており、停まっている蝶らしきものの羽のあたりを見ると
「あれは……おそらくオオミズアオだな」
図鑑や、ましてスマホすら取り出していないのにこの速度で種を判定している。これはまた、ハンギョンやらに引かれそうな話だ。しかし、あまりに接近しすぎたのか、オオミズアオは唐突に飛び立ち、遠くへ飛び去っていった。
たった今気付いたが、飛び立った羽は、自然美にも人工物にも似つかない奇麗な薄緑色をしていた。周りを鱗粉がきらきらと舞ったような、そんな気がする。もしただの勘違いではなく、れっきとした事実なら、きっとそれは強く結ばれた二人を祝福するものに違いないだろう。
北杜夫『天の蛾』より
夏の頃。あの星月夜から、うまく寝付けないことが増えた。だから今日は暇潰しに好奇心も兼ねて、星座図鑑を片手に、夜空を望遠鏡のレンズ越しに見上げている。
この国は、他と比べ暗くなったり、店が閉まったりする時間が早い。自分がいつも早く寝る分、城の消灯時間が早く、国民もそれに合わせようとした結果だろう。(ルールブックで「紳士たるもの、早寝早起きを心がけよ」と定めていたのもあるかもしれないが)だから尚更、夜空は輝いて見える。
「あれが、へびつかい座」
トレミーの48星座の一つで、黄道上にあるが黄道12星座には含まれない、なんとも除け者のような存在。今、天上のアスクレピオスの目に浮かぶのはやはり涙なのだろうか。
その時、へびつかい座の中で一番明るく見えた星が、少しだけ霞んだ気がした。目が疲れたのか。目を閉じたり、わざと瞬きをしたりするが、特にそれといった以上もなく、結局ただの勘違いのように思えた。このまま目を瞑ってしまおうか? 結構、すんなり眠れるわけでもないのに。
改めて、望遠鏡に右目を押し当てる。上にはヘルクレス座、右にはてんびん座が見えた。ヘルクレスといえば、神話のとても強い英雄、といったイメージだったが、星座のほうはそこまで目立っていない。ただ、図鑑によると大きさはそこそこあるらしかった。ふと虚栄心、という単語が思い浮かぶ。
ただ、その栄えある星々の中でひときわ存在感を放つのは、まさに満月に差し掛かろうとする月だ。昨日よりも大きく見える。そういえば、あと一ヶ月もしたら月見の時期になる。そうか、夏が終わるのか。季節や思い出、過ぎていくものは残り時間が迫るにつれ速く見える。
そうすれば、秋の星座が見られる。あいにく星座には詳しくないし、何があったか───そう考えてみても、思いつくのはせいぜい朝のニュース番組でやっている星座占いぐらいだった。本当にそれしか思いつかなかったし、自分の星座以外はどれがどの月なのかも一切わからない。逆に、それら全てがわかるとしたら結構な占い好きか何かだ。
ああ、今夜も、眠りにつけないのか。外から撤収して、自室のベッドに潜り込んだはいいものの、一向に眠気の一つ感じない。確かに、空は綺麗だった。最近は晴れ続きだし、今夜はまだ暑さがマシで、きっと普段の自分だったら小躍りしていることだろう。
しかし、寝付けない。いつまで経っても、眠気は変わらず最低値を維持している。むしろ、考え事ばかりしているせいか頭が冴えてきたようにも感じる。時計を確認しようと思ったが、手元を明るくする必要があるし、それでまた眠れなくなるのも嫌だった。
こういう時、ピケロはどうするのだろうか。彼のことだから、研究をしていると嫌でも眠気が襲ってくるだとか、天井を眺めていればいいだとか、あるいは何も考えるなと言ってきそうだが、よくよく考えたら全て試していて、落胆のあまり肩を落とした(横になったままだったから、肩を落とすというより頭を垂れがくりとする感じだ)。
そうして、開けっぱなしの窓から見える空色が明るくなっていくのを見届けた。朝が来てしまった。ひとりの朝は、こんなに寂しかったか。
「(今日も眠れなかった)」
思えば、昨日からまともな睡眠をとっていない。今日に関しては徹夜だ。もしかしたら人生初かもしれない。目をこすり、眠気覚ましのため自身の頬に強烈なビンタを一発かましてやった。しかし勢いをつけようとしたのが不幸を招いたか、首筋あたりを爪でひっかいてしまい、うっすらとだがみみず腫れができてしまった。
どうしよう、どうすれば解決できる? 隠すか、覆うか───ああもう、どうだっていい!───猫にひっかかれたことにしよう。苦しい事実より、優しい嘘だ。
今のところ、誰にもバレていないはずだ。眠れていないこと、そのせいで頭がズキズキ痛いこと。立ちくらみもある。だが、品格を失うわけにはいかない、とひとさじの矜持と狂気で、なんとか意識を保っている。
今日の任務が終わったら、少し休みをもらおう。一日休めばどうにかなるだろうし、これでも免疫は強い方だという自負がある。正味、今まで一度もインフルエンザに罹ったことがないと言ったときは誰もが驚いていた。
そうすれば、きっと。この不安も払拭できるはずだから。
何日か前にも会った気がするが、今日は俺の方からタッサムに顔を見せようと思う。だがあくまでこれは建前で、実際はつい先日改良された『池の香り再現ドーナツ』の試食をしてもらうためだ。アルペックのお中元渡しで、騎士が直々に何かを渡すと説得力が上がるという仮説がほぼ実証された。ならばドーナツの穴を埋めるように、俺が直々にドーナツを渡し反応を確認することで、仮説を実説としようじゃないか! というわけだ。
片手に主観測用モニター、もう片手にドーナツを持ち、気分は概ね上々。雨が降っていないのが残念だが、これといった支障もないので、まあ良しとする。
出発時間もあってか、タキシードサム王国に着いたのは日が暮れてからだった。泊まり込みでプレゼンする予定なので、全くもって差し支えない。モニターで時刻を確認すると、20時をちょうど回ったところだった。彼が寝る前にせめて顔合わせだけでも、と思ったのだが、これは間に合うかどうか微妙なラインだ。
───待てよ、これぐらいの時間帯ならちょうど彼は帰宅しているんじゃないか? 城と家が近く、ほぼ住み込みで主の研究をしている俺とは違い、タッサムの家は割としっかりとある。そちらへ向かうのが最善手だ。
ただ、道がわからない。彼の家には一度か二度押しかけたのみで、道筋など全くもって記憶にない。ここは悔やまれるが、主の観測を一旦中断してルート検索をするしかない。モニターとは言っても、観測用に改造してあるだけで元はタブレットだ。備え付きの機能でどこまでできるか、試してみる。
しばらくして、聞き込みをしながらようやく家の前に辿り着いた。照明の明かりが漏れていないのを見るに、まだ帰宅していないのだろう。今から彼を探しに行ってすれ違う可能性もあるから、ここは大人しく待っているとしよう。
外もまだ蒸し暑いから、先に家へ上がることにした。合鍵なら持っている。欲しいと言ったらくれたのだが、なんだか危機管理が甘いような気もしなくはない(主と俺以外には軽率に渡すな、と伝えておいたが)。
鍵を開けると、いつもより部屋の空気が重い気がした。いつもと違い薄暗いからか?───いや、そんな理由ではなかった。玄関に入ってすぐの、足元で、人が倒れている。間違いない、タッサムだ。そばに駆け寄り脈拍の確認をする。浅く呼吸をしていた。よかった、まだ生きている。
ああ、どうしてこういう時に限って、君はこんなにも妖艶に見える? 心から救いたいはずなのに、身体と意識が途切れる間際がいっとう奇麗なものだから、一緒に滅んでしまいたくなる。そうして手放される命もあれば、その光の再来を願って舞い戻る命もある。まったく美人薄命とはよく言ったものだ。
昏倒のようなものなのだろうか。とにかく、その格好では暑いに違いない。だから、早く起きてくれ。背中に腕を回し、抱き抱えるような体勢で肩を揺すぶったり、呼びかけたりする。
うやむやだった意識が一瞬にして晴れる。ぼんやりとした視界のすぐ先に、ピケロらしき影が見えた。見るに、こちらを覗き込んで、何か叫んでいる……?
「───タッサム、タッサム!」
目をぱちくりとさせていると、彼は救われたかのような表情を見せて、瞬時に抱きしめてきた。意識が戻ったのに気付いたのだろうが、なんだか大げさな気もする。
しかし、どうやら事態は深刻らしい。抱き抱えられているからわかりにくかったが、光景からしてここは玄関口だ。帰って鍵を閉めたところまでは覚えているが、それ以降は───何もない。ここで倒れたようだ。
「ボクは、何を……」
「よかった。座れるか? どこか体を痛めているかもしれない」
言いなりに、壁に体を寄せて座る。幸い怪我はないが、ひどく疲れが溜まっていて、気を抜くと意識が落ちそうになる。首がかくりと落ちては、はっと跳ねる。
「今日はもう寝よう」
様子を察したのか、微笑みを浮かべ彼はこちらに語りかけた。少し揺れるぞ、と言い、体が持ち上がる。言うなればお姫様抱っこのような姿勢だ。普段なら恥ずかしさのあまり飛び降りているところだが、何故かピケロの腕の中は安心する。だが、どうにかしてベッドまでは起きていたい。キミに、おやすみを言いたいから。
寝室の場所を教えた覚えはないのだが、彼は迷いなくボクをベッドまで連れて行った。つくづくとんでもない男だと思う。
「主のほうには俺から連絡しておく。良い夢を」
「ん、おやすみ」
穏やかな陽光と生温い空気で目が覚めた。枕元でピケロがモニターをいじっている。集中してこちらに気付いていなかったようなので、後ろから頬をつねってやろうと思ったが、物音で振り返ってしまった。
「おはよう。まだ朝の5時だ」
「早すぎたか、寝たのが」
「ああ。それと」
まるで義務付けられた進捗報告かのように、彼は淡々と昨夜のことを説明する。主たちに状況を説明したところ、急遽一週間の休暇を与えられたこと。そしてその間、ピケロが看病することになったこと。
国の職務に関しては、護衛や研究員たちが代わってくれるから心配ないと聞かされた。
「無理が祟ったんだ」
「…………そうか?」
しれっと聞き返したボクを見て、驚きに呆れが混じったような顔をして
「俺が思うに、君は精神を摩耗させすぎた。あれから少しは心の開き方を学んだと思ったんだがね」
精神の摩耗? 肉体が限界を迎えた、のではなく。
彼の言うあれとは、確実に騎士学校での一件だろう。夏季休暇の真っ只中、高熱を出したあの───
──────
暑い。暑い。頭がくらくらする。気温が高いというより、たぶん発熱をしている。とりあえず、起き上がって体温を測らなくては……
「まずい」
ピケロが部屋に帰ってきた。この時間帯は寮にすらいないはずなのに。足音が近くまで迫り、ぴたりと止まる。次の瞬間、ガチャリと鍵の開く音がした。
「タッサム!? 顔が赤い、ひどい熱だ」
ひんやりするという理由だけで床に倒れていたボクを彼はひどく心配して、いろいろ手を焼いてくれた。理系だからか、対処も的確でわりと素早かったと思う。この頃のピケロは、今よりも多弁だったっけ。
しばらくすると友人たちが見舞いに来て、やれお大事にだの、無理するなだの、あるいは監視の目がようやく外れる(同じクラスなだけで監視したつもりなど微塵もない)だのつべこべ言われた。同じ話ばかり聞かされて耳にタコができそうだったが、そのおかげで確かに寂しくはなかったと思う。
───
「目の水色がゆらゆらと揺れている。今にも消えそうだ」
───これは後に、ボクが垣間見た学生時代のピケロの日記、というかメモ帳に殴り書いてあった一文だ。病状の記録として書いたようだが、これだけは彼にそぐわず小説的な書き口で記憶に残っている。
今のボクも、そんな風に見えているのだろうか。陽の光からは程遠く、陽炎のように浮かんでは消えそうになる、幽界の水のように。
ぼんやりと考えていると、自らの存在意義も、めくりめくる体調のように、ぐらぐら揺らいでくる。ぼんやりと、朝食を摂って、体調を記録して、また見上げる天井が同じ色になったときの失望といえば、まるで言葉に表しがたい。
「ここにいていいのかな」
無意識に漏れ出た言葉に、ピケロはボクよりも驚いた様子だった。しかし冷静に、目を合わせて言い切る。
「ああ。ずっと一緒だ」
とたんに、涙が溢れ出る。どうして? 抑え込んでもいないのに、勝手に、頬に涙が伝っていく。キミを過度に心配させたくないのに。涙を拭うボクを尻目に、彼は近くに擦り寄ってきて、頭を撫で、もう片方の手は腰に置いて離さない。
「よしよし」
「…………」
「よしよし」
一体何が起きているのだろうか。気付けば彼の胸の下にすっぽりと収まり、されるがままに頭を撫でられている。
不快というわけでもないが、かと言ってこのままではあまりに恥ずかしい。しかし、こうしているとどこか落ち着くし、もっと甘えていたくなる……
「っ、んん」
「———甘え上手になったものだ」
指摘されてようやく気付いた。自分が無意識のうちに、甘ったるい猫撫で声を出してしまっていたことと、ピケロの体に頭をぐりぐりと撫でつけて、完全に甘えられる姿勢になっていたことに。
そして今朝ついた首元の傷あたりをさすられ、決壊した。抱きしめられた温かさと、初めて感じた恋愛の暖かさに泣かされていた。今の二人に、どうか泣かないで、笑ってなどというお世辞は通用しない。27℃、共感覚の彼らが、ひとつ屋根の下で呼吸をし始めるのにはふさわしい日だった。
どうやら休養をとって、大人しくしているという対応は最適解だったらしく、一日目の時点で効果が現れていた。今ではだいぶ物事を冷静に考えられるようになったし、体調も快方に向かっている。
気分がいいなら、とピケロが外出を提案してきた。買い出しついでだと言うが、時刻は涼しい夜、ちょっとした散歩にもする予定だという。すぐに、ボクがリフレッシュできるようにと色々パターンを考えた末の提案だと分かった。快諾の声に、彼は穏やかな笑みを浮かべていた。
外はニュースで聞いていた以上に冷えていて、しんとした大気を挟んで空には見慣れた星座たちが浮かんでいる。心地いい快晴だ。特技欄には必ず天気予報と書く男だから、確信犯か。
「涼しくなるのを見越していたのか?」
「そうでもなければ、こうしてわざわざ連れ出していないよ」
嘲笑混じりに返すのを見て、ここではいつものピケロに戻るんだな、と思う。ああして人を甘やかすとき特有の誘惑的な表情を見せるのは、ボクの前だけらしい。
人の気配がなくなった歩道を並んで歩いていると、街路樹に何かが停まっている。近くには行くが、俯瞰的に見るボクを差し置いて、ピケロはかなり接近しており、停まっている蝶らしきものの羽のあたりを見ると
「あれは……おそらくオオミズアオだな」
図鑑や、ましてスマホすら取り出していないのにこの速度で種を判定している。これはまた、ハンギョンやらに引かれそうな話だ。しかし、あまりに接近しすぎたのか、オオミズアオは唐突に飛び立ち、遠くへ飛び去っていった。
たった今気付いたが、飛び立った羽は、自然美にも人工物にも似つかない奇麗な薄緑色をしていた。周りを鱗粉がきらきらと舞ったような、そんな気がする。もしただの勘違いではなく、れっきとした事実なら、きっとそれは強く結ばれた二人を祝福するものに違いないだろう。
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