面影(仮)
帰路はいつもと同じ色だった。
家に帰ると、おかえりぃ、と気の抜けるような優しい声が奥から聞こえてくる。私の父方の叔母さんだ。
私がまだ三重にいたときの、中学2年生になる頃、母の様子がおかしくなった。―――らしい。原因は隣人からの嫌がらせということで、母は、県内の少し離れた母の実家で暮らすようになった。暫く父と2人暮らしだったが、私は高校へ入学することを機に東京へ。これは中学在学中に決めたことだ。理由は、憶えていない。最初は一人暮らしの予定だったが、心配性の父の意向で、昔に東京へ働きに出た叔母さんのもとへ住まわせてもらうことになった。私の生活費は、毎月父が入れてくれる。叔母さんの息子さん、もとい、私のいとこはもう家を出たらしく、少し寂しい思いをしていたそう。そして、息子を溺愛しつつも、やはり娘とお喋りしてみたかったとのこと。そういった事情も相まって、叔母さんのところへ居候させてもらっている。
……おかえり、と言われたときって、なんて返せば良いのだろう。ただいま、はなんだか馴れ馴れしいような。ただいま帰りました、はあまりにも堅いような。うん、とかはい、とかは少しかみ合っていない気がする。と、叔母さんが続けざまに
「おやつ用意してあるから、ね。食べましょ。」
と言ってくれたので、返事は「はい」に決定された。いつもは仕事で家にいないのだけれど、今日はお休みを頂いたそうだ。曰く、頭が痛いと。手を洗ってから居間へ戻る。机上にはチョコレート、ピスタチオ、ストロベリーのドーナツがそれぞれ2個ずつ。……と、なんだかお花の香りがする、ええと、紅茶。
「わぁ、美味しそうなドーナツですね。わざわざありがとうございます。」
と私は席に着く。
「ところで、今朝の頭痛は良くなりましたか。」
「ええ、もうすっかり。ありがとうね。」
「それはよかったです。」
いただきます、と小声で呟いてからドーナツを食べ始める。
―――ぽちゃん、という水音が浴室に響く。お風呂の温度はいつも42℃。実家に居た頃からそう決まっている。なんでも父の家での習慣だそうで、叔母さんも設定温度は42℃。東京に染まったハイカラな叔母さんも、ここだけはどうやら癖で抜けないらしい。もっとも、抜く必要もないのだが。お風呂だけは、安心できる。何故なら、ひとりきりだから。慣れた湯温に身体を浸けていると、ひどく安堵する。
今日の出来事を思い出す。今朝は、はちみつヨーグルトが美味しかったな。1時間目から移動教室で、少しバタついたな。それから、ああ、4時間目はサッカーだったな。それで、顔にボールが当たっちゃって、それで、で……。ミヅキくん、だっけ。久し振りに同年代の子と楽しく会話できたな。クラス、疎外感あるからなぁ。そして、似ていた。リョウちゃんに。
「リョウちゃんかぁ。懐かしいな。」
人と人との距離が近い私の地元でも、人と関わるのが苦手な私はあまり馴染めなかった。でも、リョウちゃんが、私をみんなの輪に入れてくれた。いつも一緒にいて、引っ張ってくれた。私の憧れの、月みたいなひと。こういうとき、太陽に例えるのが相場であるらしいが、彼は星の似合う男の子だったから。月の光みたいに、柔和に、淑やかに心を照らしてくれる男の子だったから。彼は私の2個上で、子供にとってそれは遠さを感じるには十分すぎるほど大きかった。月光に透ける牡丹鼠。彼のことを思い出すたび、鼓動が速まる。久し振りに、引っ越してから会わなくなった彼についてちゃんと思い出したかったので、お風呂から上がると私は父に電話をかけていた。
「―――もしもし、うん。私だよ。」
「ええと、大した用じゃないんだけど、今、時間いいかな。ちょっとだけ聞きたいことがあって。うん、ありがとう。」
愛娘の声を電話越しに聴く。東京へ1人向かわせるのが心配で仕方がなかったが、姉の話によると娘は元気そうでなによりだ。どうやら、僕に質問があるらしい。かわいい娘の質問だ。なんだって答えよう。
「で、質問というのはなんだい。」
『その、私の地元の……』
娘が地元の話をするのは珍しい。娘が地元にいた頃の、特に、中学生時代の記憶は曖昧であるから、大方勉強についての質問だろう。高校生に勉強を教える自信はないが、大丈夫だろうか。
『リョウちゃんの、ことなんだけどね。』
『あんまり憶えて無くて、どんな子だったかなって。』
僕は、何も言えずただ沈黙した。
『―――お父さん?』
娘の声が心配そうな声色に変わる。このままでは駄目だ。隠し通そうと決めたのは誰でもない、僕ではないか。ウソをつき通そうと誓っただろう。愛娘を、守るために。
「ああ、すまない。今思い出していて。悪いけど、お父さんもあんまり覚えてないな。苗字は確か……[漢字]有明[/漢字][ふりがな]ユウメイ[/ふりがな]だったな。そのくらいだ。しかしな、リョウ君が引っ越すまで、お前とずっと一緒に居たのはよく覚えているぞ。お兄さん然としていたな。はは。」
『そっか。ごめんね。忙しいのに時間使わせちゃって。じゃあ、切るね。』
「ああ。いつでもかけてこい。」
これで、良いんだ。
[中央寄せ]娘がまた、壊れてしまわないように。[/中央寄せ]
家に帰ると、おかえりぃ、と気の抜けるような優しい声が奥から聞こえてくる。私の父方の叔母さんだ。
私がまだ三重にいたときの、中学2年生になる頃、母の様子がおかしくなった。―――らしい。原因は隣人からの嫌がらせということで、母は、県内の少し離れた母の実家で暮らすようになった。暫く父と2人暮らしだったが、私は高校へ入学することを機に東京へ。これは中学在学中に決めたことだ。理由は、憶えていない。最初は一人暮らしの予定だったが、心配性の父の意向で、昔に東京へ働きに出た叔母さんのもとへ住まわせてもらうことになった。私の生活費は、毎月父が入れてくれる。叔母さんの息子さん、もとい、私のいとこはもう家を出たらしく、少し寂しい思いをしていたそう。そして、息子を溺愛しつつも、やはり娘とお喋りしてみたかったとのこと。そういった事情も相まって、叔母さんのところへ居候させてもらっている。
……おかえり、と言われたときって、なんて返せば良いのだろう。ただいま、はなんだか馴れ馴れしいような。ただいま帰りました、はあまりにも堅いような。うん、とかはい、とかは少しかみ合っていない気がする。と、叔母さんが続けざまに
「おやつ用意してあるから、ね。食べましょ。」
と言ってくれたので、返事は「はい」に決定された。いつもは仕事で家にいないのだけれど、今日はお休みを頂いたそうだ。曰く、頭が痛いと。手を洗ってから居間へ戻る。机上にはチョコレート、ピスタチオ、ストロベリーのドーナツがそれぞれ2個ずつ。……と、なんだかお花の香りがする、ええと、紅茶。
「わぁ、美味しそうなドーナツですね。わざわざありがとうございます。」
と私は席に着く。
「ところで、今朝の頭痛は良くなりましたか。」
「ええ、もうすっかり。ありがとうね。」
「それはよかったです。」
いただきます、と小声で呟いてからドーナツを食べ始める。
―――ぽちゃん、という水音が浴室に響く。お風呂の温度はいつも42℃。実家に居た頃からそう決まっている。なんでも父の家での習慣だそうで、叔母さんも設定温度は42℃。東京に染まったハイカラな叔母さんも、ここだけはどうやら癖で抜けないらしい。もっとも、抜く必要もないのだが。お風呂だけは、安心できる。何故なら、ひとりきりだから。慣れた湯温に身体を浸けていると、ひどく安堵する。
今日の出来事を思い出す。今朝は、はちみつヨーグルトが美味しかったな。1時間目から移動教室で、少しバタついたな。それから、ああ、4時間目はサッカーだったな。それで、顔にボールが当たっちゃって、それで、で……。ミヅキくん、だっけ。久し振りに同年代の子と楽しく会話できたな。クラス、疎外感あるからなぁ。そして、似ていた。リョウちゃんに。
「リョウちゃんかぁ。懐かしいな。」
人と人との距離が近い私の地元でも、人と関わるのが苦手な私はあまり馴染めなかった。でも、リョウちゃんが、私をみんなの輪に入れてくれた。いつも一緒にいて、引っ張ってくれた。私の憧れの、月みたいなひと。こういうとき、太陽に例えるのが相場であるらしいが、彼は星の似合う男の子だったから。月の光みたいに、柔和に、淑やかに心を照らしてくれる男の子だったから。彼は私の2個上で、子供にとってそれは遠さを感じるには十分すぎるほど大きかった。月光に透ける牡丹鼠。彼のことを思い出すたび、鼓動が速まる。久し振りに、引っ越してから会わなくなった彼についてちゃんと思い出したかったので、お風呂から上がると私は父に電話をかけていた。
「―――もしもし、うん。私だよ。」
「ええと、大した用じゃないんだけど、今、時間いいかな。ちょっとだけ聞きたいことがあって。うん、ありがとう。」
愛娘の声を電話越しに聴く。東京へ1人向かわせるのが心配で仕方がなかったが、姉の話によると娘は元気そうでなによりだ。どうやら、僕に質問があるらしい。かわいい娘の質問だ。なんだって答えよう。
「で、質問というのはなんだい。」
『その、私の地元の……』
娘が地元の話をするのは珍しい。娘が地元にいた頃の、特に、中学生時代の記憶は曖昧であるから、大方勉強についての質問だろう。高校生に勉強を教える自信はないが、大丈夫だろうか。
『リョウちゃんの、ことなんだけどね。』
『あんまり憶えて無くて、どんな子だったかなって。』
僕は、何も言えずただ沈黙した。
『―――お父さん?』
娘の声が心配そうな声色に変わる。このままでは駄目だ。隠し通そうと決めたのは誰でもない、僕ではないか。ウソをつき通そうと誓っただろう。愛娘を、守るために。
「ああ、すまない。今思い出していて。悪いけど、お父さんもあんまり覚えてないな。苗字は確か……[漢字]有明[/漢字][ふりがな]ユウメイ[/ふりがな]だったな。そのくらいだ。しかしな、リョウ君が引っ越すまで、お前とずっと一緒に居たのはよく覚えているぞ。お兄さん然としていたな。はは。」
『そっか。ごめんね。忙しいのに時間使わせちゃって。じゃあ、切るね。』
「ああ。いつでもかけてこい。」
これで、良いんだ。
[中央寄せ]娘がまた、壊れてしまわないように。[/中央寄せ]