面影(仮)
―――なぜだか涙が出た。頬を伝うそれは、変に生ぬるかった。思い出と今の境界さえくちゃくちゃにしてしまいそうで、ただ地面に落ちて空気になった。滲んだ君は、溶けてしまいそうで、消えてしまいそうで、今にも夏の湿気に霧散してしまいそうで。……あの時、私の瞳の中の彼は、どんな顔でこちらを見つめていたのだろう。
日は高く高く昇り、私達の身を焦がしてゆく。1年生の夏、校庭での出来事。体育の授業で、サッカーをしている。幸い私の出身は自然豊か。山やら森やらに囲まれて育ってきたので自分の体力には自信があった。「わが足三重のまかりなして、いと疲れたり」なんてお言葉を零した方もいらっしゃったそうだが、少なくとも私たち子供の体力とは無尽蔵であった。しかしこの高校があるのは東京だ。遠く、とおくの地元を少し思い出しては、青々とした草木と茶色い田畑、木の香りの漂う家々と、その広い間を縫う、道…とは言っても、人々の通った跡によってできたぼやけた道標のようなものだ。そんな景色を思い返す。地元の顔見知りやそのご先祖さま方が歩かれた轍を、あどけない匂いの小さな小さな靴の群れが踏みしめてゆく。その中に、一際大きいランドセルに背負われた私も居た。あぁ、懐かしいなぁ、なんて微笑みつつ、記憶のアルバムを捲っていると――。
「ツキミさんっ。 危ない。」
[大文字][斜体][中央寄せ]ゴッ[/中央寄せ][/斜体][/大文字]
―――痛!?……なんだか視界が白飛びしている。ハイコントラストな校庭に目が焼かれる感覚が3秒ほど続いたあと、ようやく周りの声が耳に入ってきた。少しふらつき、右足を一歩前に踏み出した。人は倒れそうになると、自然と利き足というものが出るらしい。なるほど、右足は先程までボールを蹴っていた足だ。
「本当ごめん。痛くない?」
と焦ったように息を詰めながらクラスメイトが一言。
「ううん、気にしないで。私もちょっとボーっとしちゃってたから。ごめんね。」
できるだけ軽く、明るくそう返す。
「あー、でも」
と、ズキズキする熱源を確認するように、手のひらで軽く撫でながら言葉を続ける。
「一応、保健室行ってくる。」
ボールを蹴ったクラスメイトの、平謝りする頭頂部がよく見える。周りの他の女子たちも、少し心配そうにこちらをちらりと見て、無理しないで、とでも言いたげな目線で見送ってくれた。
コンコンコン、と保健室の扉を叩く。
「失礼します。1-Aのツキミです。体育の授業中にボールを頭にぶつけてしまったので、保冷剤をいただきに伺いました。」
そこには、丸い背中の、小さな保健室の先生がポツンと座っていた。私の力を入れすぎていた肩が、空気が抜けたようにしぼんでいく感覚が分かった。先生は、バインダーに挟まった名簿に私のクラスや日時なんかを一通り書き終えるとこちらに向き直って、入り口に近い、先生の目の前の丸椅子に座るよう指示した。先生は、少ししゃがれた低い声で、
「一応、頭皮に擦り傷がついてないか診るから、申し訳ないけど、髪の毛、触るね。」
と遠慮がちに断りを入れた。数秒して、
「うん、擦り傷なんかは無さそうだね。」
と先生が立ち上がり、冷蔵庫の保冷剤を取りに行ってくださった。……人というのは、座ったときと立ったときでこうも印象が変わるのか。思っていたよりもずっと、先生の背中は広く、そして高かった。思わず、威圧感を感じてしまった。保健室の壁が、天井が、床が、グンと縮こまった気がする。保冷剤を先生から受け取ると、ありがとうございますとだけ言い、ドアへと歩き始める。ドアの窪みに手をかけ、ガラガラと横へスライドさせてから先生の方を向き、失礼しましたと軽くお辞儀をして廊下に出た。冷房の効いた保健室よりもずっと暑い空気が全身を包む。はぁ、と大きく息を吐く。とても緊張した。私のクラスは、常識のそれよりも仲が良いと記憶しているが、その空気感に馴染めていない私なのだ。その上、慣れない東京、初めましての先生、初めて保健室―― はた、と思い直す。そういえば、この学校のほとんどはまだ入ったことがなかったな。私は去年の雪降る頃から、影法師のずっと長い今まで、骨折で入院をしていたのだ。学校に通い始めたのは3日前からだ。病室でコツコツ勉強してはいたが、今日ようやく皆と足並みをそろえられるようになった。……と、思っていた。右手に握られたやけに冷たいそれを眺めるに、まだまだのようだということを認識させられる。また、はぁ、と大きく息を吐くと、校庭へ歩き出す。
日は高く高く昇り、私達の身を焦がしてゆく。1年生の夏、校庭での出来事。体育の授業で、サッカーをしている。幸い私の出身は自然豊か。山やら森やらに囲まれて育ってきたので自分の体力には自信があった。「わが足三重のまかりなして、いと疲れたり」なんてお言葉を零した方もいらっしゃったそうだが、少なくとも私たち子供の体力とは無尽蔵であった。しかしこの高校があるのは東京だ。遠く、とおくの地元を少し思い出しては、青々とした草木と茶色い田畑、木の香りの漂う家々と、その広い間を縫う、道…とは言っても、人々の通った跡によってできたぼやけた道標のようなものだ。そんな景色を思い返す。地元の顔見知りやそのご先祖さま方が歩かれた轍を、あどけない匂いの小さな小さな靴の群れが踏みしめてゆく。その中に、一際大きいランドセルに背負われた私も居た。あぁ、懐かしいなぁ、なんて微笑みつつ、記憶のアルバムを捲っていると――。
「ツキミさんっ。 危ない。」
[大文字][斜体][中央寄せ]ゴッ[/中央寄せ][/斜体][/大文字]
―――痛!?……なんだか視界が白飛びしている。ハイコントラストな校庭に目が焼かれる感覚が3秒ほど続いたあと、ようやく周りの声が耳に入ってきた。少しふらつき、右足を一歩前に踏み出した。人は倒れそうになると、自然と利き足というものが出るらしい。なるほど、右足は先程までボールを蹴っていた足だ。
「本当ごめん。痛くない?」
と焦ったように息を詰めながらクラスメイトが一言。
「ううん、気にしないで。私もちょっとボーっとしちゃってたから。ごめんね。」
できるだけ軽く、明るくそう返す。
「あー、でも」
と、ズキズキする熱源を確認するように、手のひらで軽く撫でながら言葉を続ける。
「一応、保健室行ってくる。」
ボールを蹴ったクラスメイトの、平謝りする頭頂部がよく見える。周りの他の女子たちも、少し心配そうにこちらをちらりと見て、無理しないで、とでも言いたげな目線で見送ってくれた。
コンコンコン、と保健室の扉を叩く。
「失礼します。1-Aのツキミです。体育の授業中にボールを頭にぶつけてしまったので、保冷剤をいただきに伺いました。」
そこには、丸い背中の、小さな保健室の先生がポツンと座っていた。私の力を入れすぎていた肩が、空気が抜けたようにしぼんでいく感覚が分かった。先生は、バインダーに挟まった名簿に私のクラスや日時なんかを一通り書き終えるとこちらに向き直って、入り口に近い、先生の目の前の丸椅子に座るよう指示した。先生は、少ししゃがれた低い声で、
「一応、頭皮に擦り傷がついてないか診るから、申し訳ないけど、髪の毛、触るね。」
と遠慮がちに断りを入れた。数秒して、
「うん、擦り傷なんかは無さそうだね。」
と先生が立ち上がり、冷蔵庫の保冷剤を取りに行ってくださった。……人というのは、座ったときと立ったときでこうも印象が変わるのか。思っていたよりもずっと、先生の背中は広く、そして高かった。思わず、威圧感を感じてしまった。保健室の壁が、天井が、床が、グンと縮こまった気がする。保冷剤を先生から受け取ると、ありがとうございますとだけ言い、ドアへと歩き始める。ドアの窪みに手をかけ、ガラガラと横へスライドさせてから先生の方を向き、失礼しましたと軽くお辞儀をして廊下に出た。冷房の効いた保健室よりもずっと暑い空気が全身を包む。はぁ、と大きく息を吐く。とても緊張した。私のクラスは、常識のそれよりも仲が良いと記憶しているが、その空気感に馴染めていない私なのだ。その上、慣れない東京、初めましての先生、初めて保健室―― はた、と思い直す。そういえば、この学校のほとんどはまだ入ったことがなかったな。私は去年の雪降る頃から、影法師のずっと長い今まで、骨折で入院をしていたのだ。学校に通い始めたのは3日前からだ。病室でコツコツ勉強してはいたが、今日ようやく皆と足並みをそろえられるようになった。……と、思っていた。右手に握られたやけに冷たいそれを眺めるに、まだまだのようだということを認識させられる。また、はぁ、と大きく息を吐くと、校庭へ歩き出す。