不遇水魔法使いの禁忌術式
「はあ...いくら名前が思い出せないからと言って《匿名》ってのはどうなんだい?」
「そうは言ってもこれ以外に名乗る名が思いつかんのだ。仕方がないだろう」
「まあキミがそれでいいならいいけどさ...それにしても《匿名》...《匿名》かぁ...」
サーシャは目の前の人物をどのように見ればいいのかさっぱり分からなくなっていた。物凄く慌てた様子を見せたと思ったら、直後にこの態度である。挙句の果てには自身の名前が分からないからといって《匿名》なんて名乗る。目の前の彼は変人と言ってもおかしくはないのでは?と考えていると彼が口を開いた。
「一つ貴公に尋ねたい事があるのだが」
「なんだい?」
「いや、別に大した事ではないが、感謝を伝えていない事を思い出してな。推測にはなるが、状況を見る限りでは貴公が私を助けてくれたのだろう?恩を受けたのならば必ず返すというのが私の信念でね。恩を受けた身で聞くのもどうかとは思うのだが、差し支えがないようなら名を伺ってもよいか?と」
そんな事をあけすけに言える人間は間違いなく変人だろうと思ったサーシャだった。
筆者も同意である。
「ボクはサーシャ。サーシャ・クローチェだ」
「サーシャ嬢と呼んでも?」
「...分かった」
「では改めて感謝を。自分の名も思い出す事が出来ない不肖の身ではあるが、受けた恩はいずれ返す事を約束させて頂こう」
そう言いながら《匿名》は片膝を地面につけた体勢で、サーシャの両手をがっしりと掴んだ。もしこれを誰かが見ていようものなら彼女が告白されたという噂が広がったであろう振る舞いであった。
サーシャはこの状況を飲み込めずにいた。行動や発言は変人と呼んでも差し支えない目前の人物から初対面であるのにプロポーズを受けたと勘違いしたからである。それもそのはず、彼女には恋愛経験が無かったのだ。物心ついた時から今の今まで魔法の研究しかして来なかった彼女に《匿名》の行動は劇物そのものと言っても過言では無く、彼女の中の男性像はガラガラと音を立てて崩れていた。
やがて彼女は自分に何が起こっているかを理解したが、内側から湧き出る羞恥心に耐えきれずに部屋から逃げ出してしまうのだった。
[水平線]
サーシャが突如として部屋から出てしまった事に困惑していた《匿名》であったが、現状の整理をしようと考え、背負っていた鞄がどこかに置いてないだろうかと部屋を彼女の私物に触れない程度で探っているとサーシャがほんのりと顔を赤くしながら、緑色の鞄を手に持って戻ってきた。
「...キミが探しているのはこれかい?」
...もしや、倒れている近くに落ちていたのだろうか。同意の旨を伝えると彼女は私にその鞄を渡しながら「...この際だから伝えておくけど、さっきのような行動は控えた方がいいんじゃないかな、とボクは思うよ」なんて言われた。何か失礼を働いただろうか、と自らの行動を振り返るも特に思い当たる事がなかったのでとりあえず謝意を伝えておく事にした。異文化交流とは難しいものである。
鞄の中には、私が遺跡調査のために持ってきていたスコップ等の道具やヘルメットに加えてパスポートやスマホが丸々残っていた。
今更ながらではあるが、彼は《匿名》と名乗った事に酷く違和感を感じていた。あの瞬間の思考が自分のものでなく何かに誘導されたように感じていたからである。
今なら名前を思い出せるのではと思い、何らかの持ち物に記名がされていないかと念入りに全ての道具を確認するが、やはり見つける事は叶わなかった。個人を証明するような情報が書かれている部分が全て不自然に消えていたのだ。
パスポートに至っては性別と「日本在住」以外の欄は消失していた。ここまで名前が認識出来ないのはかえって罠なのではとすら思うほど徹底されていた状況では諦めざるをえなかった。もしやスマホならと考えもしたがそれに至っては電源が着くどころか充電切れの画面が表示されることすらなかった。ただの硬い板に変わってしまったようだ。
なんと、自分の世界とこの異世界を繋ぐものは私の記憶だけらしい。そう認識した瞬間自分の存在が酷くあやふやなものに思えて来た。なんせこの世界における「私」は戸籍がないくせに出処不明の知識だけがある不審者である。鞄だけ渡して出ていってくれ、という事も出来た彼女に今もなお追い出されていないというのは優しさ以外の何物でもないだろう。自分の行動を戒めなければ、と同時に彼女の懐の大きさに感謝せねばと思い直す《匿名》であった。
とはいえ、分からない事をそのままにしておくのもよくないと思い今の状況について質問をしようとサーシャに目をやると何故かスマホを注視していた。電源がついていないとはいえ、未知のものに興味津々といった所だろうか。
「サーシャ嬢、この後時間はあるだろうか」
「...なっ、なんだい?」
「先程と同じ事を繰り返すようで当方としても大変心苦しいのだが、いくつか聞きたい事がある。何か用事があれば当然そちらを優先して貰って構わないがいかがだろうか?」
「...ああ、時間は気にしなくていいよ。うん、そうだね。ボクもキミに聞きたい事が沢山ある。キミもボクの質問に全て答えてくれるなら答えてあげようじゃないか」
「サーシャ嬢の寛大な配慮にまずは感謝を。今まで様々な女性と話してきたが、貴公の程の優しさを持っているのは初めてだ。こんなどうしようもない身ではあるが、私に分かる範囲で良ければ嘘偽りなく答える事を誓わせて頂こう」
「...そういうとこだぞ!!」
私はしばし思案した後、彼女に「自分がどう見えているか」「どうやって私を見つけてここまで運んだのか」の2つを聞いてみる事にした。
1つ目の質問は自分の名前が認識出来ていない現状で、他者から化け物のように思われていないかと不安を感じたからである。ここがどんな世界なのかはさっぱり分からないが「名」が重要であった世界観の作品を複数見てきた身としては失われている現状というのは恐ろしさを感じるのは当然のことのように思えた。どんな答えが帰ってきても問題がないように待ち構えていたが、「どこにでもいそうな青年男性の見た目である」というような酷くあっさりとした答えが帰ってきた。杞憂だったかと胸を下ろした途端に少し気持ちが楽になった。
2つ目の質問はサーシャ嬢が砂漠で倒れている中で私を見つけた、というのに酷く違和感を感じたからだ。砂漠の中で倒れているのを発見するのは非常に困難な事のように思えるが、仮にもここは異世界である。もしかしたら探知系の魔法のようなものがあるかもしれないと期待してもバチは当たらないだろう。
結論から言えば、この世界には魔法は存在していた。非常に残念な事に私がそれらを使える事はなさそうだが。
彼女の話を聞く限り、倒れていた私を見つけたのは偶然だが、マナと呼ばれる物質を使って術式を発動する事で砂漠で倒れていた所を何とかここまで運んだとの事。
ファンタジー世界と分かった途端に人目を気にせずに喜びの声をあげたくなったが、マナと呼ばれる物質の知覚が出来ていないのなら諦めた方がよいと直後に伝えられた私は酷く落ち込んだ。私の様子を見てか、後天的に見えるようにする手段等が今後発見されるかも、と励ましてくれたが諦めた方が懸命だろう。
「...ふむ。異世界転生した割には出来そうな事が何も無い、か。夢とは人間が無意識下で望んでいる事を反映すると言うが、この状況を夢だと仮定した場合、私は自分を痛めつけるのがよほど好きなのだろう。無論私にそんな趣味はさらさら無いし、あったとしても認める訳にはいかないが」
「...キミのその変な言い回しはどうにかならないのかい?まあボクが気にしなければそれで終わる話なんだけどさ」
「どうにも昔からの癖でな...こればかりはどうしても治すことが出来んのだ。不快であるというのならこちらとしても意識しておくが」
「少し気になっただけさ。そういう事ならボクは当然受け入れるとも。それで、聞きたい事はそれだけかい?」
「ああ、大体ではあるが状況が掴めたように思う」
「それじゃあ今度はボクの質問だ。そうだね...大体4つぐらいかな。答えによっては増えるかもしれないけど」
「なんでも聞いてくれたまえ。私とてこの先する事が決まっている訳ではないので時間はたっぷりとあるはずだ」
「じゃあ1つ目の質問だ。その...板のような物はなんだい?どうしてかは分からないけどそこに水のマナが大量に詰まっているように見えるんだ。具体的にはボクが水魔法を一日中発動しても余っていそうなぐらい。まだマナを取り出して保存するような技術が確立されている訳じゃないのに、どうしてマナが見えないキミがそんな物を持っているのかが不思議で仕方がないんだ」
......なにそれ......知らん.....こわ.....
「そうは言ってもこれ以外に名乗る名が思いつかんのだ。仕方がないだろう」
「まあキミがそれでいいならいいけどさ...それにしても《匿名》...《匿名》かぁ...」
サーシャは目の前の人物をどのように見ればいいのかさっぱり分からなくなっていた。物凄く慌てた様子を見せたと思ったら、直後にこの態度である。挙句の果てには自身の名前が分からないからといって《匿名》なんて名乗る。目の前の彼は変人と言ってもおかしくはないのでは?と考えていると彼が口を開いた。
「一つ貴公に尋ねたい事があるのだが」
「なんだい?」
「いや、別に大した事ではないが、感謝を伝えていない事を思い出してな。推測にはなるが、状況を見る限りでは貴公が私を助けてくれたのだろう?恩を受けたのならば必ず返すというのが私の信念でね。恩を受けた身で聞くのもどうかとは思うのだが、差し支えがないようなら名を伺ってもよいか?と」
そんな事をあけすけに言える人間は間違いなく変人だろうと思ったサーシャだった。
筆者も同意である。
「ボクはサーシャ。サーシャ・クローチェだ」
「サーシャ嬢と呼んでも?」
「...分かった」
「では改めて感謝を。自分の名も思い出す事が出来ない不肖の身ではあるが、受けた恩はいずれ返す事を約束させて頂こう」
そう言いながら《匿名》は片膝を地面につけた体勢で、サーシャの両手をがっしりと掴んだ。もしこれを誰かが見ていようものなら彼女が告白されたという噂が広がったであろう振る舞いであった。
サーシャはこの状況を飲み込めずにいた。行動や発言は変人と呼んでも差し支えない目前の人物から初対面であるのにプロポーズを受けたと勘違いしたからである。それもそのはず、彼女には恋愛経験が無かったのだ。物心ついた時から今の今まで魔法の研究しかして来なかった彼女に《匿名》の行動は劇物そのものと言っても過言では無く、彼女の中の男性像はガラガラと音を立てて崩れていた。
やがて彼女は自分に何が起こっているかを理解したが、内側から湧き出る羞恥心に耐えきれずに部屋から逃げ出してしまうのだった。
[水平線]
サーシャが突如として部屋から出てしまった事に困惑していた《匿名》であったが、現状の整理をしようと考え、背負っていた鞄がどこかに置いてないだろうかと部屋を彼女の私物に触れない程度で探っているとサーシャがほんのりと顔を赤くしながら、緑色の鞄を手に持って戻ってきた。
「...キミが探しているのはこれかい?」
...もしや、倒れている近くに落ちていたのだろうか。同意の旨を伝えると彼女は私にその鞄を渡しながら「...この際だから伝えておくけど、さっきのような行動は控えた方がいいんじゃないかな、とボクは思うよ」なんて言われた。何か失礼を働いただろうか、と自らの行動を振り返るも特に思い当たる事がなかったのでとりあえず謝意を伝えておく事にした。異文化交流とは難しいものである。
鞄の中には、私が遺跡調査のために持ってきていたスコップ等の道具やヘルメットに加えてパスポートやスマホが丸々残っていた。
今更ながらではあるが、彼は《匿名》と名乗った事に酷く違和感を感じていた。あの瞬間の思考が自分のものでなく何かに誘導されたように感じていたからである。
今なら名前を思い出せるのではと思い、何らかの持ち物に記名がされていないかと念入りに全ての道具を確認するが、やはり見つける事は叶わなかった。個人を証明するような情報が書かれている部分が全て不自然に消えていたのだ。
パスポートに至っては性別と「日本在住」以外の欄は消失していた。ここまで名前が認識出来ないのはかえって罠なのではとすら思うほど徹底されていた状況では諦めざるをえなかった。もしやスマホならと考えもしたがそれに至っては電源が着くどころか充電切れの画面が表示されることすらなかった。ただの硬い板に変わってしまったようだ。
なんと、自分の世界とこの異世界を繋ぐものは私の記憶だけらしい。そう認識した瞬間自分の存在が酷くあやふやなものに思えて来た。なんせこの世界における「私」は戸籍がないくせに出処不明の知識だけがある不審者である。鞄だけ渡して出ていってくれ、という事も出来た彼女に今もなお追い出されていないというのは優しさ以外の何物でもないだろう。自分の行動を戒めなければ、と同時に彼女の懐の大きさに感謝せねばと思い直す《匿名》であった。
とはいえ、分からない事をそのままにしておくのもよくないと思い今の状況について質問をしようとサーシャに目をやると何故かスマホを注視していた。電源がついていないとはいえ、未知のものに興味津々といった所だろうか。
「サーシャ嬢、この後時間はあるだろうか」
「...なっ、なんだい?」
「先程と同じ事を繰り返すようで当方としても大変心苦しいのだが、いくつか聞きたい事がある。何か用事があれば当然そちらを優先して貰って構わないがいかがだろうか?」
「...ああ、時間は気にしなくていいよ。うん、そうだね。ボクもキミに聞きたい事が沢山ある。キミもボクの質問に全て答えてくれるなら答えてあげようじゃないか」
「サーシャ嬢の寛大な配慮にまずは感謝を。今まで様々な女性と話してきたが、貴公の程の優しさを持っているのは初めてだ。こんなどうしようもない身ではあるが、私に分かる範囲で良ければ嘘偽りなく答える事を誓わせて頂こう」
「...そういうとこだぞ!!」
私はしばし思案した後、彼女に「自分がどう見えているか」「どうやって私を見つけてここまで運んだのか」の2つを聞いてみる事にした。
1つ目の質問は自分の名前が認識出来ていない現状で、他者から化け物のように思われていないかと不安を感じたからである。ここがどんな世界なのかはさっぱり分からないが「名」が重要であった世界観の作品を複数見てきた身としては失われている現状というのは恐ろしさを感じるのは当然のことのように思えた。どんな答えが帰ってきても問題がないように待ち構えていたが、「どこにでもいそうな青年男性の見た目である」というような酷くあっさりとした答えが帰ってきた。杞憂だったかと胸を下ろした途端に少し気持ちが楽になった。
2つ目の質問はサーシャ嬢が砂漠で倒れている中で私を見つけた、というのに酷く違和感を感じたからだ。砂漠の中で倒れているのを発見するのは非常に困難な事のように思えるが、仮にもここは異世界である。もしかしたら探知系の魔法のようなものがあるかもしれないと期待してもバチは当たらないだろう。
結論から言えば、この世界には魔法は存在していた。非常に残念な事に私がそれらを使える事はなさそうだが。
彼女の話を聞く限り、倒れていた私を見つけたのは偶然だが、マナと呼ばれる物質を使って術式を発動する事で砂漠で倒れていた所を何とかここまで運んだとの事。
ファンタジー世界と分かった途端に人目を気にせずに喜びの声をあげたくなったが、マナと呼ばれる物質の知覚が出来ていないのなら諦めた方がよいと直後に伝えられた私は酷く落ち込んだ。私の様子を見てか、後天的に見えるようにする手段等が今後発見されるかも、と励ましてくれたが諦めた方が懸命だろう。
「...ふむ。異世界転生した割には出来そうな事が何も無い、か。夢とは人間が無意識下で望んでいる事を反映すると言うが、この状況を夢だと仮定した場合、私は自分を痛めつけるのがよほど好きなのだろう。無論私にそんな趣味はさらさら無いし、あったとしても認める訳にはいかないが」
「...キミのその変な言い回しはどうにかならないのかい?まあボクが気にしなければそれで終わる話なんだけどさ」
「どうにも昔からの癖でな...こればかりはどうしても治すことが出来んのだ。不快であるというのならこちらとしても意識しておくが」
「少し気になっただけさ。そういう事ならボクは当然受け入れるとも。それで、聞きたい事はそれだけかい?」
「ああ、大体ではあるが状況が掴めたように思う」
「それじゃあ今度はボクの質問だ。そうだね...大体4つぐらいかな。答えによっては増えるかもしれないけど」
「なんでも聞いてくれたまえ。私とてこの先する事が決まっている訳ではないので時間はたっぷりとあるはずだ」
「じゃあ1つ目の質問だ。その...板のような物はなんだい?どうしてかは分からないけどそこに水のマナが大量に詰まっているように見えるんだ。具体的にはボクが水魔法を一日中発動しても余っていそうなぐらい。まだマナを取り出して保存するような技術が確立されている訳じゃないのに、どうしてマナが見えないキミがそんな物を持っているのかが不思議で仕方がないんだ」
......なにそれ......知らん.....こわ.....