黒色鉛筆
ガラガラやかましく話す汽車の中で、私はただ一人、向かいの席と見合っていた。さらり流れる窓の景色は、電線がつらなり、向こうの山が見えるほどのどかであった。袋に詰められた蜜柑はぎゅうと抱きしめても、振動に耐えれずふるふる震えている。
そういえば、この帰郷はたった今日思い立って、何も考えずにしたことだ。この蜜柑も、本来は冬にこたつでだらだらと食べるために買った。つまりは、本当ならいつでも手に届くほどのことで、それ故私は傲り数十年も言い訳をして、故郷を心から遠ざけていた。
英二の思い出話を思い出すと、自分の不甲斐なさや、すっかりあの頃とは変わってしまった心境に驚く。もう故郷での思い出は思い出せない。何があったかも、殆ど忘れてしまった。だが、ずっとそこから出たがっていたことはなんとなく思い出せる。
今こうして電車に揺られると、不思議と後悔は過ぎ去ってゆく。それより、故郷への想いが膨らみ、希望が待っている様に感じた。
ふと窓に目をやってみると、まだのどかな山々は続いている。故郷はここより近郊にあって、子供の遠足程に近く、もうすぐの所にあった。
時計を見ると、乗った時よりうんと時が進んでいた。今日から待ち遠しくなった故郷は、同じ場所にずっとあった筈なのに、何故か初めて降り立つ地の様に新しく見えた。舗装されていない土の道、火をつけられ焦げた様な色の木造の家、そして、どすんと立った電柱、全て何一つ変わっていなかった。それなのに私は、それが前よりも愛おしく見えた。
汽車から降りて、しっかり踏み締めると同時に前を見ると、やはり故郷があった。都会より空は高く見えた。
私は実家へ向かうために、道を辿った。不思議と、思い出せなかった筈の思い出が蘇ってくる。メンコをした道だとか、菓子をこぼして殴られた道だとか。
だがそれらももう、思い出せても所詮はぼんやりしている。
そうこうしていると家の前についたが、何故か扉を叩こうとする手がすくむ。数十年も、ほったらかしにしていた我が家だ。もう、忘れていたのに、思い出したらこうして我儘を言う、そんな酷いやつには、私でも会いたくない。
だが、手で叩くよりも先に、扉が開いた。
そこにいたのは、母だった。少し年老いていたが、確かにそうだった。母はゆっくり口を開いた。
「えぇと、どなたさんでしたっけ。」
母のその一言で、私は何処か突き落とされた感じがした。ゴトッと心の中で音がし、私は気づくとゆっくり後ろへずさりと下がっていた。
一瞬、家を間違えたんじゃないかと思い、表札を見ても、そこは私と同じ苗字で、間違いなかった。
「あの、どうされましたか。」
気づくと私は逃げる様にして去っていた。
優しかった母の言葉の数々が浮かぶ。あの頃の母はもう居ないのだなと、ようやく気づいた頃には、既に日は沈んでいた。
人はいつか忘れるものとは分かっていても、それが受け入れられない。いや、もしかすると、忘れているのではなくて、分からなかっただけでは無いだろうか。あり得る話だが、それはそれで悲しい。
何処にも行く宛てなど消えてしまったが、もう歩くしか道は無いかと思った。
袋に詰めた蜜柑を駅のベンチに置き、手紙を書いた。
『私は荻野忠弘というものです。どなたか、これを見かけた方は、これを荻野という表札の家に届けて下さい。』
切符をまた買い、私は故郷を感じる間もなく帰ることにした。
そういえば故郷へ行く時、英二は私に対して、たくさん喜び、悲しんでくれた。それなのに私は見えないふりをして、それを返そうとしなかった。
列車が走る頃、友人はどんな顔をしていただろうか。
もうそれを考える頃には、手を振っていた彼は居ないのに。悲しくて目を背けていた背後を、今になって後悔した。
そういえば、この帰郷はたった今日思い立って、何も考えずにしたことだ。この蜜柑も、本来は冬にこたつでだらだらと食べるために買った。つまりは、本当ならいつでも手に届くほどのことで、それ故私は傲り数十年も言い訳をして、故郷を心から遠ざけていた。
英二の思い出話を思い出すと、自分の不甲斐なさや、すっかりあの頃とは変わってしまった心境に驚く。もう故郷での思い出は思い出せない。何があったかも、殆ど忘れてしまった。だが、ずっとそこから出たがっていたことはなんとなく思い出せる。
今こうして電車に揺られると、不思議と後悔は過ぎ去ってゆく。それより、故郷への想いが膨らみ、希望が待っている様に感じた。
ふと窓に目をやってみると、まだのどかな山々は続いている。故郷はここより近郊にあって、子供の遠足程に近く、もうすぐの所にあった。
時計を見ると、乗った時よりうんと時が進んでいた。今日から待ち遠しくなった故郷は、同じ場所にずっとあった筈なのに、何故か初めて降り立つ地の様に新しく見えた。舗装されていない土の道、火をつけられ焦げた様な色の木造の家、そして、どすんと立った電柱、全て何一つ変わっていなかった。それなのに私は、それが前よりも愛おしく見えた。
汽車から降りて、しっかり踏み締めると同時に前を見ると、やはり故郷があった。都会より空は高く見えた。
私は実家へ向かうために、道を辿った。不思議と、思い出せなかった筈の思い出が蘇ってくる。メンコをした道だとか、菓子をこぼして殴られた道だとか。
だがそれらももう、思い出せても所詮はぼんやりしている。
そうこうしていると家の前についたが、何故か扉を叩こうとする手がすくむ。数十年も、ほったらかしにしていた我が家だ。もう、忘れていたのに、思い出したらこうして我儘を言う、そんな酷いやつには、私でも会いたくない。
だが、手で叩くよりも先に、扉が開いた。
そこにいたのは、母だった。少し年老いていたが、確かにそうだった。母はゆっくり口を開いた。
「えぇと、どなたさんでしたっけ。」
母のその一言で、私は何処か突き落とされた感じがした。ゴトッと心の中で音がし、私は気づくとゆっくり後ろへずさりと下がっていた。
一瞬、家を間違えたんじゃないかと思い、表札を見ても、そこは私と同じ苗字で、間違いなかった。
「あの、どうされましたか。」
気づくと私は逃げる様にして去っていた。
優しかった母の言葉の数々が浮かぶ。あの頃の母はもう居ないのだなと、ようやく気づいた頃には、既に日は沈んでいた。
人はいつか忘れるものとは分かっていても、それが受け入れられない。いや、もしかすると、忘れているのではなくて、分からなかっただけでは無いだろうか。あり得る話だが、それはそれで悲しい。
何処にも行く宛てなど消えてしまったが、もう歩くしか道は無いかと思った。
袋に詰めた蜜柑を駅のベンチに置き、手紙を書いた。
『私は荻野忠弘というものです。どなたか、これを見かけた方は、これを荻野という表札の家に届けて下さい。』
切符をまた買い、私は故郷を感じる間もなく帰ることにした。
そういえば故郷へ行く時、英二は私に対して、たくさん喜び、悲しんでくれた。それなのに私は見えないふりをして、それを返そうとしなかった。
列車が走る頃、友人はどんな顔をしていただろうか。
もうそれを考える頃には、手を振っていた彼は居ないのに。悲しくて目を背けていた背後を、今になって後悔した。
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