世界に溢れる夢
[中央寄せ]・・・[/中央寄せ]
ノイトとリーリャが1時間程歩くと、コンサートホールが見えてきた。
「うわ...こんなに大きいの...?前世のリーリャはここで演奏を......!スゴいね!!」
「いや〜、私もあの時はすごく緊張したよ〜。すっごく広い会場にたっくさん人が来て私の演奏を聞いてたんだよ?今でもまだ信じられない...。」
建物自体の広さは先程訪れたノイトの母校の約2~3倍くらいだろうか。ノイトの学校も広かったが、このコンサートホールはさらに広い。2人は入口から中へと入り、中央ホールへと向かった。図書館やスーパーと同様に、電気は通っているようだ。
「あぁ...懐かしいなぁ...。」
「スゴい......僕が今まで見た中で1番大きい建物だよ...。」
「そうなの?ここはまだ通路だよ。会場を見てもあんまりびっくりしないでね?」
「ん...カリギュラが働くわけではなさそうだけど......。正直驚かない自信はないな...。」
リーリャがある扉の前で止まってその中へと入った。ノイトもリーリャの後に続き、舞台裏らしき場所を進んでいく。やがてリーリャが再び立ち止まり、ノイトの方を振り返った。どうやら、舞台がすぐそこに広がっているらしい。
「ふふっ...ノイト、私が昔演奏してた曲聞かせてあげるねっ!」
「...うん、ありがとう。楽しみだよ!」
リーリャが一歩踏み出す度にコツンと足音が広い会場に響き、舞台の中央に置かれた黒いピアノに近づいていく。リーリャがフッと息を吐くとリーリャからはプロの風格が現れ、ノイトの目は次第にリーリャの後ろ姿へと吸い寄せられるようだった。
(なんか...気配が変わった......?溢れ出す経験者オーラが...!)
気がつけばリーリャはピアノの椅子に腰をかけていて、丁度演奏を始めようとしているところだ。ノイトは我に返ってピアノの近くに立ち、じっと演奏を聞くことにする。ノイトの聞く準備が出来たことを確認したリーリャは演奏を始める。
リーリャの踊る指が奏でるのは「ソナタK.1」※だ。軽やかに弾ける音の一つ一つに重みが乗っていて、飛んでしまうことがない。
(ホントにすごいな......いや、だってリーリャって何曲弾けるんだ?)
ノイトはリーリャが今までに演奏していた曲を思い出してみた。初めて会ったときは「別れの曲」を演奏してて...『失われた古城』で「ノクターン第2番」...迷宮都市・モスクルで「ヴェネツィアの舟歌第2」と...いつだったか「エリーゼのために」も弾いてたな......。「ピアノ・ソナタ第14番」もだし、「パッサカリア」とか「ゴンドラの船頭歌」の演奏も良かったな...。
この段階で既にリーリャは6曲、楽譜を見ずに演奏出来る程覚えているということになる。
「いと高きにある神にのみ栄光あれBWV66」も弾いてたな...。あと、「交響曲第7番 第1楽章」。あれは笑っちゃいそうだったけど、まぁ飛行船を支える程の力強さを求めるならあれも妥当だったか。「夢想」とか「ジムノペディ第1番」とか「ジュ・トゥ・ヴ」は綺麗な演奏だったね...。「シシリエンヌ」もエルゼリーデさんのお陰で弾けるようになったらしいし、まだまだ成長中か...。それでも既にすごすぎて何も言えないけど。...他には「慰め」「シンフォニア」とパッヘルベルの「カノン」も弾いてたな。
リーリャが楽譜なしで演奏することが出来るものは最低でも15曲。恐らくまだ弾けるだろうということを考えると、とてもただの中学3年生だとは思えない。
リーリャの演奏が終わり、ノイトは我に返って拍手をする。広いホールでたった1人の拍手。もちろん観客席の奥の静寂に吸い込まれるようにして消えてしまうものだったが、リーリャはそれだけで十分だった。
「リーリャ、すごく良かったよ!ちょっとだけ暗い雰囲気のアンダートーンに細かい旋律が刻まれてたね〜。」
「ふふっ...何それ。わざわざ専門用語引っ張ってこなくても良いっての。」
「たまには...ね?プロの演奏を聞けたんだし、それなりに期待には応えてあげたいな〜って思って。」
「私なんかじゃまだまだ半人前だよ。ヴィルトゥオーゾって呼ばれるような人たちには全然敵わないし、エルゼリーデさんとかの方が私よりもずっと上手いよ。」
「比べる対象が上すぎない...?エルゼリーデさんは普通のプロって感じですごいけど、ヴィルトゥオーゾは[漢字]神[/漢字][ふりがな]バケモノ[/ふりがな]でしょ...。当時中学3年生だった女子の実力としてはリーリャは十分プロだよ。実際、こんなに広い所で演奏してたんでしょ?それだけでもうすごいよ。」
「ん...そんなに褒めないでよ。ノイトの褒めはなんだかすごく効くんだから...。」
「二面性提示効果かな〜。」
「対比は...?」
「それも含まれてるようなものだよ。」
ノイトは広く静かなホールの観客席を見渡してからリーリャへと視線を戻した。
「ノイト...。」
「ん...?どうしたの、リーリャ。」
リーリャは心中を汲んで欲しげにじっとノイトのことをジト目で見つめている。最近は自分から色々言うようになったリーリャが、以前の状態に戻ってしまったようだ。
(え〜っと...何かを察して欲しい......んだよね?それは分かるんだけど、何を...?)
ノイトは記憶を少しずつ遡っていき、先程の会話を思い出す。
──ふふっ...あのね、私ね。
──じゃあ、私の名前は何でしょうか!
ノイトの母校での会話だった。教室から窓の景色を見ていたとき、リーリャが何かを言いかけていた。しかし、リーリャは会話の主導権を握るためにそれをお預けにしたのだ。さらに、音楽室で連弾を終えた後にノイトがリーリャのことを理解出来たと口にしたためか、名前を知っているかを聞いてきた。そこでノイトは答えることが出来ず、リーリャに揚げ足を取られたのだ。
(多分、あれだな...。僕の方から聞くのはなんかこう...すごくプライドが...僕にプライドなんてあったのか......。まぁ良いや。それがあれだけど、このままだと気まずいし....聞いてみよう。)
ノイトは一度深呼吸を挟み、一歩リーリャへと歩み寄る。
「リーリャ。」
「ノイト。...せっかくこの場所に来たんだから、私の前世の名前で呼んでくれない?」
(いや、自分から言ったよ...。)
ノイトが知っているのはリーリャの前世での苗字だけであり、下の名前まではわからない。その苗字も、メルクが前世でリーリャの演奏を聞いたことがあるという事実がなければノイトが知ることはなかっただろう。
「えっと...樟本、さん......で合ってる?」
「...うん、合ってる。やっぱり、メルクと話してたの聞いてたでしょ。」
「うん。あとは、ゲデニスの能力で前世での出来事を追体験したとき、少しだけ前世のリーリャの名札が見えたから。」
「ふ〜ん...よく見てくれてるんだね、私のこと。...それで、私の下の名前は?」
「あ、分かんないです...。」
「だろうね〜。私のことを名前で呼んでくれる人、全然居なかったから。」
「それは...どうして?」
「...多分、だけど......私がこんなにピアノの演奏が出来て、ちょっと近寄りがたい雰囲気だったんじゃないかな...?よく話しかけてくれる子も居たけど苗字でさん付けだったし...。」
「...そっか。覚えてもらえてなかったのかな?」
「うっ....それもあるかも...。」
「じゃあ、僕が覚えてれば良いよ。」
ノイトが微笑み、それを見たリーリャは釣られて笑顔になる。
「そう、だね...ノイトなら覚えててくれる?」
「もちろん。絶対に忘れないから。忘れても思い出すよ。」
「ノイトがそう言うなら...大丈夫か。それじゃあ、さっき学校で言おうとしてたこと、言うね!」
リーリャが椅子から立ち上がり、ノイトの目の前に立つ。ノイトとの身長差があり、リーリャが上目遣いでノイトの顔を覗き込むように近づくような体勢になった。学校の教室に居たときのように顔が近づき、ノイトの心臓は僅かに鼓動を早めた。
(あれ...こういうのに強いと思ってたんだけど、意外と弱い......?)
意識する度にほんの少しずつ頬が赤く染まっていくのを感じる。脳が理解していて制御を試みるが、身体はそこまで従順じゃない。ノイトの顔を見てリーリャは何かを集中に手に収めたかのような笑みを浮かべ、満足そうにノイトを煽る。
「血色良いね!顔をちょ〜っとだけ近づけただけでそんなに赤くなっちゃうなんてウブでかわいいなぁ~、ノイトは。」
「リーリャこそ心做しか顔赤いよ〜?世紀の大発見・万有引力だ〜、って感じじゃないの?」
もちろん、ノイトのカウンターの方が上手だった。しかし、リーリャもノイトと長らく共に居たことで思考が覚醒している。
「それ、頭が良いってことかなぁ?わざわざ褒めてくれてありがとね〜。私って、知恵の象徴だったのかな?」
「食べられる側じゃない?アダムとイヴを唆したヘビを恨むことだね。ヘビっていうか、多分悪魔だけど。」
「あぁ〜、やっぱりそっちが...いや、悪魔なら両方に化けられるか。つまり、私は小悪魔兼リンゴかな〜。ノイトは私に翻弄されちゃってるみたいだしぃ〜?」
「自分で自分を食べさせるのはつぶあんのヒーローだけで良いんだよ。...っていうか、リンゴで良いの?」
「え...まぁ、そこは拾っておいてあげた方が良いかな〜、って思ってね?」
ノイトが今までメルクとしていたような、抽象的な情報や部分的なワードからあるものを連想させていくスタイルの煽り合いという名の会話が繰り広げられている。
「まぁ良いや。本題からズレてるよ?」
「またそれ...?まぁ、別にいっか。」
「伝染ってやんの。」
「しっ!」
結局、最終的にはノイトの方がまだ上手だったようだ。リーリャも今の会話を楽しんでいたことを実感しつつ、本題へと戻った。もう、物理的な距離がどうだという話ではない。
「それで...私の名前について、だったよね...?」
「うん。」
リーリャはノイトと目を合わせたままこっそりとノイトの右手を取り、軽く握った。ノイトに自分の名前を忘れてほしくない。そんな想いが感じられるようだ。リーリャの瞳が真っ直ぐとノイトの目を射止め、視界から2人以外のものが消える。
「私の前世での名前は、樟本 陽環。ヒワだよ。」
「ヒワ...。鶸...八面六臂か......。良い名前だね。」
「八面...何?」
「花言葉と同じように鳥言葉っていうものがあって、鶸っていう鳥の鳥言葉が八面六臂。」
「...どういう意味なの?」
「色々な方面で活躍する、って感じかな〜。実際、1人で何曲もクラシックを覚えてるのはすごく合ってると思う。名は体を表す、とはこのことだね...。」
「......ふふっ、そうだったんだ...。ママは、それも知ってたのかなぁ?」
どこか遠くの空へと顔を向けたリーリャの表情は少し寂しそうだった。
「...私の友達だった子たちも、みんなどこに行ったの......?」
「リーリャ...?」
ノイトに声をかけられて振り向いたリーリャの視界の中心に居たノイトの輪郭がぼやけていく。頬には何か温かいものが流れていた。
「ノイト...みんなは?...みんな、どこに行ったの?」
ノイトはすぐに返す言葉を見つけることが出来ない。一瞬自分の口元が硬直したのを感じ、ノイトも内心では戸惑う。しかし、リーリャを心配させまいとすぐに言葉を補った。
「...分からない......けど、多分大丈夫だよ。これはあくまで推測なんだけど、この世界は正確には前世の世界じゃない。」
「え...?そうなの...?」
「うん。学校も図書館も僕の記憶通りの場所に記憶通りのものがあって...完全に記憶そのままだった。もちろん、僕が普段から意識していなくても見かけたことがあるものなら脳の潜在意識の中に残ってるものはあるかもしれないけど。...でもね、人が1人も居ないのはおかしい。確かに前世の僕は1人で居ることが結構好きだったけど、それでも電車から見る景色を支える電車の運転手だったり、図書館で本の貸借をするときに少しだけ話す司書さんだったり...誰かに支えられているはずのものがなくなってる。」
「...でも、ノイトが“1人が良い”って思う気持ちの方が強かったらみんなも消えちゃうんじゃない...?」
「それはないよ。もしそうだとしたら今リーリャはここには居ないし、リーリャの記憶が反映されていない点で引っかかるでしょ?」
「...もし仮にこの世界がノイトの魔法とかの影響で作られたものだったら、私の記憶が反映されていないってこともあると思うけど......。」
「大丈夫だよ。実際、このコンサートホールの内装を、前世の僕は見たことないし。この場所はリーリャの記憶が反映されている、もしくは前世世界のコピーみたいなものだよ。きっと。」
リーリャはこの世界が本物の前世の世界ではないことを信じることにした。リーリャの懸念も、ノイトの手にかかれば払拭することが出来る。リーリャはいつも通りのノイトの様子を見て、自分の瑣末さとノイトの肝要さを実感した。
「そっか...そうだね。ノイトがそういうなら、私もそれを信じるだけだから。」
「あんまり期待はしないでよね?僕だって間違えることはあるし、何より...リーリャを守ってあげられるのは僕だけじゃないよ。僕1人に執着しすぎるのは良くない。」
「...ノイト、それってわざと言ってるでしょ。」
「...何のこと?」
ノイトはとぼけて見せたが、リーリャはそれを見落とさなかった。ノイトはわざとリーリャが守られる側の人間であることをそれとなく述べている。リーリャはノイトがそんなことを心から言うことはないことを知っているため、ノイトのお得意の誘導にも引っかからなかった。
「大事な[漢字]相棒[/漢字][ふりがな]パートナー[/ふりがな]だって言ってくれたじゃん。私が“守ってもらう”なんてノイトは言わない。そうだよね?」
「あ〜、バレたか...。僕にあまり執着・依存しすぎないように、って話だよ。ちょっとでも酷いこと言えば好感度は下がると思ったけど......。ごめん、リーリャはそこまで単純じゃなかったか...。」
「当然でしょ。数週間ほぼずっとノイトと一緒に居たんだから。ノイトのこと、ずっと見てたよ。」
「あんま参考にして欲しくない面も多いんだけどね......。ハァ...とにかく、何かに依存しすぎないこと。良いね?もし僕が居なくなったときに困るでしょ。」
リーリャはムッとしてノイトの服の袖を強く引き寄せた。
「やだ。ノイトが居なくなるなんて、絶対イヤ!」
「リーリャ...?僕だって人間なんだし、いつかは死んじゃうんだよ。だから...」
「それでも!イヤなものはイヤだよ!! 一緒が良い!」
(情緒不安定だなぁ...。)
ノイトは困ったような表情を浮かべながら頭を掻く。リーリャの手がノイトの服の袖を握りしめている力は思ったよりも強かったのだ。
「...どうして?」
リーリャが黙り込む。ノイトも薄々感じてはいたものの、まだ確証は得られていなかった。しかし、展開がラブコメすぎてもはやどちらかが動き出すのを待っているような状態になってしまっている。
「“どうして”って、そりゃあ......その...えっと.........。」
しばらく俯いていたリーリャだったが、やがて顔を少しだけ上げてノイトの目を見ながらボソッと呟くようにして言った。
「ノイトのこと、好きだもん......。」
ノイトはリーリャが頬を赧めていく様子を見て、思わず微笑んでしまう。
(ちゃんと言うようになったね...ホントに。あの日時計塔で出会ってからほぼずっと一緒に居たから、僕でも分かる。)
“ありがとう”はNGの鉄板。かと言ってストレートに言葉を返すのはノイトの性格上躊躇われる部分がある。恐らく人生で一度きりの初めての告白。どう答えても、あるいは答えなかったとしても一生記憶に残り続ける。そこで考えることをやめたノイトが出した答えは──。
「リーリャ。その気持ち、僕も大切にしてあげたいと思う。さっきあんなこと言ったばかりだけど...やっぱり、僕の隣は君が良い。」
リーリャは顔を上げ、ノイトの顔を見る。ノイトは自分の服の袖を掴んだリーリャの手をそっと離しながら、片膝立ちになった。リーリャの目を真っ直ぐと見たノイトは右手をリーリャへと差し出して言葉を続ける。
「これからも、僕のこと...見ててくれませんか?」
リーリャはノイトの手をじっと見つめ、やがておずおずとその手を伸ばした。リーリャの手がノイトの手のひらの上に乗り、熱が伝わってくる。
「...はい......っ!///」
しばらく笑顔のまま見つめ合っていた2人だったが、やがてノイトが立ち上がって歩き出した。
[小文字]「オ パ キャマラド...。」[/小文字]
「ん?クラリネット?」
「...ふふっ。いや、何でもないよ。もし気になるようだったら自分で調べてみると良い。」
「んん...?」
ノイトの隣に並んだリーリャは照明に照らされた広い舞台から、影で包まれた舞台裏へと消えていくのだった。
※「ソナタK.1」⋯ソナタ ニ短調 K.1/ドメニコ・スカルラッティ
ノイトとリーリャが1時間程歩くと、コンサートホールが見えてきた。
「うわ...こんなに大きいの...?前世のリーリャはここで演奏を......!スゴいね!!」
「いや〜、私もあの時はすごく緊張したよ〜。すっごく広い会場にたっくさん人が来て私の演奏を聞いてたんだよ?今でもまだ信じられない...。」
建物自体の広さは先程訪れたノイトの母校の約2~3倍くらいだろうか。ノイトの学校も広かったが、このコンサートホールはさらに広い。2人は入口から中へと入り、中央ホールへと向かった。図書館やスーパーと同様に、電気は通っているようだ。
「あぁ...懐かしいなぁ...。」
「スゴい......僕が今まで見た中で1番大きい建物だよ...。」
「そうなの?ここはまだ通路だよ。会場を見てもあんまりびっくりしないでね?」
「ん...カリギュラが働くわけではなさそうだけど......。正直驚かない自信はないな...。」
リーリャがある扉の前で止まってその中へと入った。ノイトもリーリャの後に続き、舞台裏らしき場所を進んでいく。やがてリーリャが再び立ち止まり、ノイトの方を振り返った。どうやら、舞台がすぐそこに広がっているらしい。
「ふふっ...ノイト、私が昔演奏してた曲聞かせてあげるねっ!」
「...うん、ありがとう。楽しみだよ!」
リーリャが一歩踏み出す度にコツンと足音が広い会場に響き、舞台の中央に置かれた黒いピアノに近づいていく。リーリャがフッと息を吐くとリーリャからはプロの風格が現れ、ノイトの目は次第にリーリャの後ろ姿へと吸い寄せられるようだった。
(なんか...気配が変わった......?溢れ出す経験者オーラが...!)
気がつけばリーリャはピアノの椅子に腰をかけていて、丁度演奏を始めようとしているところだ。ノイトは我に返ってピアノの近くに立ち、じっと演奏を聞くことにする。ノイトの聞く準備が出来たことを確認したリーリャは演奏を始める。
リーリャの踊る指が奏でるのは「ソナタK.1」※だ。軽やかに弾ける音の一つ一つに重みが乗っていて、飛んでしまうことがない。
(ホントにすごいな......いや、だってリーリャって何曲弾けるんだ?)
ノイトはリーリャが今までに演奏していた曲を思い出してみた。初めて会ったときは「別れの曲」を演奏してて...『失われた古城』で「ノクターン第2番」...迷宮都市・モスクルで「ヴェネツィアの舟歌第2」と...いつだったか「エリーゼのために」も弾いてたな......。「ピアノ・ソナタ第14番」もだし、「パッサカリア」とか「ゴンドラの船頭歌」の演奏も良かったな...。
この段階で既にリーリャは6曲、楽譜を見ずに演奏出来る程覚えているということになる。
「いと高きにある神にのみ栄光あれBWV66」も弾いてたな...。あと、「交響曲第7番 第1楽章」。あれは笑っちゃいそうだったけど、まぁ飛行船を支える程の力強さを求めるならあれも妥当だったか。「夢想」とか「ジムノペディ第1番」とか「ジュ・トゥ・ヴ」は綺麗な演奏だったね...。「シシリエンヌ」もエルゼリーデさんのお陰で弾けるようになったらしいし、まだまだ成長中か...。それでも既にすごすぎて何も言えないけど。...他には「慰め」「シンフォニア」とパッヘルベルの「カノン」も弾いてたな。
リーリャが楽譜なしで演奏することが出来るものは最低でも15曲。恐らくまだ弾けるだろうということを考えると、とてもただの中学3年生だとは思えない。
リーリャの演奏が終わり、ノイトは我に返って拍手をする。広いホールでたった1人の拍手。もちろん観客席の奥の静寂に吸い込まれるようにして消えてしまうものだったが、リーリャはそれだけで十分だった。
「リーリャ、すごく良かったよ!ちょっとだけ暗い雰囲気のアンダートーンに細かい旋律が刻まれてたね〜。」
「ふふっ...何それ。わざわざ専門用語引っ張ってこなくても良いっての。」
「たまには...ね?プロの演奏を聞けたんだし、それなりに期待には応えてあげたいな〜って思って。」
「私なんかじゃまだまだ半人前だよ。ヴィルトゥオーゾって呼ばれるような人たちには全然敵わないし、エルゼリーデさんとかの方が私よりもずっと上手いよ。」
「比べる対象が上すぎない...?エルゼリーデさんは普通のプロって感じですごいけど、ヴィルトゥオーゾは[漢字]神[/漢字][ふりがな]バケモノ[/ふりがな]でしょ...。当時中学3年生だった女子の実力としてはリーリャは十分プロだよ。実際、こんなに広い所で演奏してたんでしょ?それだけでもうすごいよ。」
「ん...そんなに褒めないでよ。ノイトの褒めはなんだかすごく効くんだから...。」
「二面性提示効果かな〜。」
「対比は...?」
「それも含まれてるようなものだよ。」
ノイトは広く静かなホールの観客席を見渡してからリーリャへと視線を戻した。
「ノイト...。」
「ん...?どうしたの、リーリャ。」
リーリャは心中を汲んで欲しげにじっとノイトのことをジト目で見つめている。最近は自分から色々言うようになったリーリャが、以前の状態に戻ってしまったようだ。
(え〜っと...何かを察して欲しい......んだよね?それは分かるんだけど、何を...?)
ノイトは記憶を少しずつ遡っていき、先程の会話を思い出す。
──ふふっ...あのね、私ね。
──じゃあ、私の名前は何でしょうか!
ノイトの母校での会話だった。教室から窓の景色を見ていたとき、リーリャが何かを言いかけていた。しかし、リーリャは会話の主導権を握るためにそれをお預けにしたのだ。さらに、音楽室で連弾を終えた後にノイトがリーリャのことを理解出来たと口にしたためか、名前を知っているかを聞いてきた。そこでノイトは答えることが出来ず、リーリャに揚げ足を取られたのだ。
(多分、あれだな...。僕の方から聞くのはなんかこう...すごくプライドが...僕にプライドなんてあったのか......。まぁ良いや。それがあれだけど、このままだと気まずいし....聞いてみよう。)
ノイトは一度深呼吸を挟み、一歩リーリャへと歩み寄る。
「リーリャ。」
「ノイト。...せっかくこの場所に来たんだから、私の前世の名前で呼んでくれない?」
(いや、自分から言ったよ...。)
ノイトが知っているのはリーリャの前世での苗字だけであり、下の名前まではわからない。その苗字も、メルクが前世でリーリャの演奏を聞いたことがあるという事実がなければノイトが知ることはなかっただろう。
「えっと...樟本、さん......で合ってる?」
「...うん、合ってる。やっぱり、メルクと話してたの聞いてたでしょ。」
「うん。あとは、ゲデニスの能力で前世での出来事を追体験したとき、少しだけ前世のリーリャの名札が見えたから。」
「ふ〜ん...よく見てくれてるんだね、私のこと。...それで、私の下の名前は?」
「あ、分かんないです...。」
「だろうね〜。私のことを名前で呼んでくれる人、全然居なかったから。」
「それは...どうして?」
「...多分、だけど......私がこんなにピアノの演奏が出来て、ちょっと近寄りがたい雰囲気だったんじゃないかな...?よく話しかけてくれる子も居たけど苗字でさん付けだったし...。」
「...そっか。覚えてもらえてなかったのかな?」
「うっ....それもあるかも...。」
「じゃあ、僕が覚えてれば良いよ。」
ノイトが微笑み、それを見たリーリャは釣られて笑顔になる。
「そう、だね...ノイトなら覚えててくれる?」
「もちろん。絶対に忘れないから。忘れても思い出すよ。」
「ノイトがそう言うなら...大丈夫か。それじゃあ、さっき学校で言おうとしてたこと、言うね!」
リーリャが椅子から立ち上がり、ノイトの目の前に立つ。ノイトとの身長差があり、リーリャが上目遣いでノイトの顔を覗き込むように近づくような体勢になった。学校の教室に居たときのように顔が近づき、ノイトの心臓は僅かに鼓動を早めた。
(あれ...こういうのに強いと思ってたんだけど、意外と弱い......?)
意識する度にほんの少しずつ頬が赤く染まっていくのを感じる。脳が理解していて制御を試みるが、身体はそこまで従順じゃない。ノイトの顔を見てリーリャは何かを集中に手に収めたかのような笑みを浮かべ、満足そうにノイトを煽る。
「血色良いね!顔をちょ〜っとだけ近づけただけでそんなに赤くなっちゃうなんてウブでかわいいなぁ~、ノイトは。」
「リーリャこそ心做しか顔赤いよ〜?世紀の大発見・万有引力だ〜、って感じじゃないの?」
もちろん、ノイトのカウンターの方が上手だった。しかし、リーリャもノイトと長らく共に居たことで思考が覚醒している。
「それ、頭が良いってことかなぁ?わざわざ褒めてくれてありがとね〜。私って、知恵の象徴だったのかな?」
「食べられる側じゃない?アダムとイヴを唆したヘビを恨むことだね。ヘビっていうか、多分悪魔だけど。」
「あぁ〜、やっぱりそっちが...いや、悪魔なら両方に化けられるか。つまり、私は小悪魔兼リンゴかな〜。ノイトは私に翻弄されちゃってるみたいだしぃ〜?」
「自分で自分を食べさせるのはつぶあんのヒーローだけで良いんだよ。...っていうか、リンゴで良いの?」
「え...まぁ、そこは拾っておいてあげた方が良いかな〜、って思ってね?」
ノイトが今までメルクとしていたような、抽象的な情報や部分的なワードからあるものを連想させていくスタイルの煽り合いという名の会話が繰り広げられている。
「まぁ良いや。本題からズレてるよ?」
「またそれ...?まぁ、別にいっか。」
「伝染ってやんの。」
「しっ!」
結局、最終的にはノイトの方がまだ上手だったようだ。リーリャも今の会話を楽しんでいたことを実感しつつ、本題へと戻った。もう、物理的な距離がどうだという話ではない。
「それで...私の名前について、だったよね...?」
「うん。」
リーリャはノイトと目を合わせたままこっそりとノイトの右手を取り、軽く握った。ノイトに自分の名前を忘れてほしくない。そんな想いが感じられるようだ。リーリャの瞳が真っ直ぐとノイトの目を射止め、視界から2人以外のものが消える。
「私の前世での名前は、樟本 陽環。ヒワだよ。」
「ヒワ...。鶸...八面六臂か......。良い名前だね。」
「八面...何?」
「花言葉と同じように鳥言葉っていうものがあって、鶸っていう鳥の鳥言葉が八面六臂。」
「...どういう意味なの?」
「色々な方面で活躍する、って感じかな〜。実際、1人で何曲もクラシックを覚えてるのはすごく合ってると思う。名は体を表す、とはこのことだね...。」
「......ふふっ、そうだったんだ...。ママは、それも知ってたのかなぁ?」
どこか遠くの空へと顔を向けたリーリャの表情は少し寂しそうだった。
「...私の友達だった子たちも、みんなどこに行ったの......?」
「リーリャ...?」
ノイトに声をかけられて振り向いたリーリャの視界の中心に居たノイトの輪郭がぼやけていく。頬には何か温かいものが流れていた。
「ノイト...みんなは?...みんな、どこに行ったの?」
ノイトはすぐに返す言葉を見つけることが出来ない。一瞬自分の口元が硬直したのを感じ、ノイトも内心では戸惑う。しかし、リーリャを心配させまいとすぐに言葉を補った。
「...分からない......けど、多分大丈夫だよ。これはあくまで推測なんだけど、この世界は正確には前世の世界じゃない。」
「え...?そうなの...?」
「うん。学校も図書館も僕の記憶通りの場所に記憶通りのものがあって...完全に記憶そのままだった。もちろん、僕が普段から意識していなくても見かけたことがあるものなら脳の潜在意識の中に残ってるものはあるかもしれないけど。...でもね、人が1人も居ないのはおかしい。確かに前世の僕は1人で居ることが結構好きだったけど、それでも電車から見る景色を支える電車の運転手だったり、図書館で本の貸借をするときに少しだけ話す司書さんだったり...誰かに支えられているはずのものがなくなってる。」
「...でも、ノイトが“1人が良い”って思う気持ちの方が強かったらみんなも消えちゃうんじゃない...?」
「それはないよ。もしそうだとしたら今リーリャはここには居ないし、リーリャの記憶が反映されていない点で引っかかるでしょ?」
「...もし仮にこの世界がノイトの魔法とかの影響で作られたものだったら、私の記憶が反映されていないってこともあると思うけど......。」
「大丈夫だよ。実際、このコンサートホールの内装を、前世の僕は見たことないし。この場所はリーリャの記憶が反映されている、もしくは前世世界のコピーみたいなものだよ。きっと。」
リーリャはこの世界が本物の前世の世界ではないことを信じることにした。リーリャの懸念も、ノイトの手にかかれば払拭することが出来る。リーリャはいつも通りのノイトの様子を見て、自分の瑣末さとノイトの肝要さを実感した。
「そっか...そうだね。ノイトがそういうなら、私もそれを信じるだけだから。」
「あんまり期待はしないでよね?僕だって間違えることはあるし、何より...リーリャを守ってあげられるのは僕だけじゃないよ。僕1人に執着しすぎるのは良くない。」
「...ノイト、それってわざと言ってるでしょ。」
「...何のこと?」
ノイトはとぼけて見せたが、リーリャはそれを見落とさなかった。ノイトはわざとリーリャが守られる側の人間であることをそれとなく述べている。リーリャはノイトがそんなことを心から言うことはないことを知っているため、ノイトのお得意の誘導にも引っかからなかった。
「大事な[漢字]相棒[/漢字][ふりがな]パートナー[/ふりがな]だって言ってくれたじゃん。私が“守ってもらう”なんてノイトは言わない。そうだよね?」
「あ〜、バレたか...。僕にあまり執着・依存しすぎないように、って話だよ。ちょっとでも酷いこと言えば好感度は下がると思ったけど......。ごめん、リーリャはそこまで単純じゃなかったか...。」
「当然でしょ。数週間ほぼずっとノイトと一緒に居たんだから。ノイトのこと、ずっと見てたよ。」
「あんま参考にして欲しくない面も多いんだけどね......。ハァ...とにかく、何かに依存しすぎないこと。良いね?もし僕が居なくなったときに困るでしょ。」
リーリャはムッとしてノイトの服の袖を強く引き寄せた。
「やだ。ノイトが居なくなるなんて、絶対イヤ!」
「リーリャ...?僕だって人間なんだし、いつかは死んじゃうんだよ。だから...」
「それでも!イヤなものはイヤだよ!! 一緒が良い!」
(情緒不安定だなぁ...。)
ノイトは困ったような表情を浮かべながら頭を掻く。リーリャの手がノイトの服の袖を握りしめている力は思ったよりも強かったのだ。
「...どうして?」
リーリャが黙り込む。ノイトも薄々感じてはいたものの、まだ確証は得られていなかった。しかし、展開がラブコメすぎてもはやどちらかが動き出すのを待っているような状態になってしまっている。
「“どうして”って、そりゃあ......その...えっと.........。」
しばらく俯いていたリーリャだったが、やがて顔を少しだけ上げてノイトの目を見ながらボソッと呟くようにして言った。
「ノイトのこと、好きだもん......。」
ノイトはリーリャが頬を赧めていく様子を見て、思わず微笑んでしまう。
(ちゃんと言うようになったね...ホントに。あの日時計塔で出会ってからほぼずっと一緒に居たから、僕でも分かる。)
“ありがとう”はNGの鉄板。かと言ってストレートに言葉を返すのはノイトの性格上躊躇われる部分がある。恐らく人生で一度きりの初めての告白。どう答えても、あるいは答えなかったとしても一生記憶に残り続ける。そこで考えることをやめたノイトが出した答えは──。
「リーリャ。その気持ち、僕も大切にしてあげたいと思う。さっきあんなこと言ったばかりだけど...やっぱり、僕の隣は君が良い。」
リーリャは顔を上げ、ノイトの顔を見る。ノイトは自分の服の袖を掴んだリーリャの手をそっと離しながら、片膝立ちになった。リーリャの目を真っ直ぐと見たノイトは右手をリーリャへと差し出して言葉を続ける。
「これからも、僕のこと...見ててくれませんか?」
リーリャはノイトの手をじっと見つめ、やがておずおずとその手を伸ばした。リーリャの手がノイトの手のひらの上に乗り、熱が伝わってくる。
「...はい......っ!///」
しばらく笑顔のまま見つめ合っていた2人だったが、やがてノイトが立ち上がって歩き出した。
[小文字]「オ パ キャマラド...。」[/小文字]
「ん?クラリネット?」
「...ふふっ。いや、何でもないよ。もし気になるようだったら自分で調べてみると良い。」
「んん...?」
ノイトの隣に並んだリーリャは照明に照らされた広い舞台から、影で包まれた舞台裏へと消えていくのだった。
※「ソナタK.1」⋯ソナタ ニ短調 K.1/ドメニコ・スカルラッティ