青い桜が咲く時は
#1
「ねぇねぇ、青い桜って知ってる?」
相変わらず今日も、めげずに僕に話しかける君。
僕はいつも、君に声をかけない。それでも何故か君は、ずっとずっと、僕に話しかけてきた。
「青い桜ってね、実は存在するんだよ! 知ってた?」
君はいつも、笑顔で話しかけてくる。でも僕は知っている。君は、僕の名前も年齢も、なんにも知らないってこと。なんでそれを知ってるのかって言うと、僕も、君の事を全く知らないから。お互いに知らない事だらけだけれど、それでも君は話しかけてくる。でも、それが怖くはない。
「ねぇ、できたらさ、キミと見に行きたいな。青い桜」
君は、無邪気な子供や小動物みたいに、毎日僕のそばをついて回る。いつも左側から話しかけてくる君は、紺色のブレザーの制服を着ている。
「……あ、私もう行くね! バイバイ、また今度ね!」
前に出て、僕に手を振って、君は今日も、遠くの方の駅へと向かっていく。君が僕に振るその手はいつも、同年代……であろう、普通の女の子より、ずっと細くて長かった。
[中央寄せ]***[/中央寄せ]
僕は[漢字]失声症[/漢字][ふりがな]しっせいしょう[/ふりがな]だ。
失声症というのは、声が出なくなる病気の事。原因は人によって様々だが、僕の発症理由は、ストレスだった。
職場でいじめられていた僕は、ある日、母が精神疾患を持っている事を誰かから言いふらされた。その噂が広まったせいで、いじめがかなりエスカレートしてしまったのだ。
今は退職して、手当金と貯金で生活している。だがしかし、一度負ってしまった病は、もう二度と治せない。僕は今、失声症の他に、うつ病も併発している。
毎日、なぜこんな事になったのかと考える。できる事なら、仕事がしたかった。
だけど、母は憎めなかった。母は、苦労しながら僕の事を育ててくれた。僕にとって、世界で一番大切で、世界で一番やさしい人だったから。
「はぁ……」
君と出会った秋の日、僕は近くの公園のブランコを、放心状態になりながら漕いでいた。よくよく考えれば、成人男性が秋の夕方にブランコ漕いでるなんて、かなり変な風景だろう。
子供は、この公園には近づかない。遊具などは揃っているが、なにせここらへんには、子供が全く居ないのだ。たまに観光客が、連れてきた子供をここで遊ばせるが、それだけ。寂しい所だった。
そんな寂しい公園は、秋になると虫の音色が目立つ。コオロギかなにかが、クルルとどこかで鳴いているのだ。僕はブランコを漕ぎながら、そんな虫たちの声を、ただ黙って聞いていた。
その夕方を変えてくれたのが、君だった。
「あ、キミもこの公園使うの? 良いよね、秋になるとさ、虫の声が目立つから」
急に隣のブランコに座ってきた君は、今と変わらず、紺色のブレザーを着ていた。最初に、君を見た時は驚いた。君は急に話しかけてきたし、何より、君はそこらの女子よりも可愛かったから。
つやつやとした、背中までの黒い髪は、橙色の夕焼けを反射して、静かに光っていた。ビー玉のように輝くその瞳は、僕のことをしっかりと捉えて、いつも離してくれない。
秋の夕方。春よりもずっとずっと濃い色をしたあの夕方に、僕と君の人生は交わった。
[中央寄せ]***[/中央寄せ]
それから、君はずっと僕に話しかけてくるようになった。君と僕は、外出の時間が合うみたいだから、君は毎日僕に話しかけてきた。当然だけど、僕は君と話ができないので、ただ君の話を聞いているだけ。
「今日寒いね。キミは大丈夫?」
冬になると、君は毎日「寒い」と言い続けていた。それと同時に、僕の心配もしてくれていた。
「あー、冬になるとみかんが食べたくなるね! 私のお姉ちゃんの彼氏さんのおじいさんがね、みかん作ってるんだって! この時期になると、毎年みかんのおすそ分けしてくれるんだよね、楽しみだなー!」
僕はいつしか、君の話を聞くのが、楽しみになっていた。君の話を聞くためだけに、毎日外出をして。君の明るい声を聴くために、本当は好きじゃないはずの明るい日差しを浴びた。
そんな僕の願いに呼応するように、君は日を追うごとに、どんどん明るくなって、そして綺麗になっていった。最初に会った時も、君は明るくて素敵な人だったけど、その時以上に、綺麗になった気がする。
でも、僕はそれを言わない。言えないというのもあるけど、成人男性が女子高生に「綺麗になった」なんて言ってしまえば、大問題だろう。今の時点でも、よく周りから変な視線を浴びるのに。
だから僕は、君への思いを、必死に隠した。
[中央寄せ]***[/中央寄せ]
そんなある日。青い桜の話をした翌日のことだ。
君は、汗をかいていて、息切れをしながらやってきた。今まで、君はゆったりと来ていたものだから、僕もとてもびっくりしてしまった。
「ご、ごめんね……。急いでたんだ」
謝罪なんてしなくていいのに、と言いたかったけど、やっぱり今も、声は出てこない。
君のために、声を出せたら良いのに。脳にそんな願いが浮かぶ。
「……あのさ、ちょっと大事なお話するね」
君は急に、深刻そうな顔をした。何かがあったのだろうかと、とても心配になるが、それは君の話を聞いてから判断しよう。
「私、引っ越しする事になったの」
青天の霹靂だった。
「前にさ、お姉ちゃんに彼氏さんが居るってお話したでしょ? お姉ちゃんさ、その彼氏さんと結婚する事になったの。それの関係で……我が家はお引越し。ここじゃない、すごく遠い場所に住むことになったんだよね」
君の話を聞いて、僕はなんだか、すごく悲しくなった。どうしてだろう。僕と君の距離は、ずっとずっと遠いはずなのに。
そして、話し終わったと思ったのか、君は一回黙りこくる。そして僕は、不安をかき消すために深呼吸をする。でも、吸った空気はなぜか、とてもまずかった。
「…………あのさ」
突然、君はもう一回話し出す。さっきまで左側に居た君は、僕の前に出て、長めに息を吸って、話を始めた。
「いつも……お話し聞いてくれて、ありがとう。すごくさ、嬉しかったんだ」
嬉しかったのは僕の方だ、そう言いたい気持ちでいっぱいだった。
君が話しかけてくれたから、君がいつも笑顔で居てくれたから、僕はなんとか生きることができた。重いことを言うが、君が居なければ、多分僕は今生きていないと思う。
「あのね、ずっと言えなかったけど……。私は」
君は、何かを言おうとした直前、息を詰まらせた。
「ご、ごめん……。やっぱり、言おうとすると、どうしても……」
無理しないで、と言いたい。
いや、違う。言いたいことはそれだけじゃない。君に、沢山の事を言いたい。感謝も、些細な恨み言も、嘆きも、全部君に伝えたい。頑張って声を出そうと、声帯に力を入れてみるが、やっぱりダメだ。声は、出せなかった。
「……いや、こんなの言い訳だね。ごめんね。ちゃんと言うよ」
うつむいたまま、君はそう言う。
「私ね……ADHDなの。多動性障害ってやつ。私は、ちょっとだけ症状が重いの」
君はそう言って、困ったようにはにかんだ。
多動症、名前は聞いたことがある。でもまさか、君がそうだなんて知らなかったし、全く分からなかった。君はただの、同年代より綺麗な明るい女の子だと思ってたから。
でも、君からそう聞くと、なんだか安心してしまう自分が居る。君も、僕と同じ「出来ない人」なんだと思うと、すごく性格が悪い思考なのは承知の上で、すごくやすらかな気持ちになってしまう。
「キミに話しかけたのもさ、なんか、抑えきれなかったんだよね。あの時は、とにかく誰かと話したいって思ってたから」
そう言うと、君はやっとうつむくのをやめて、頭を上げて前を向いた。あの夕方の時と、顔はほぼ全く変わっていなかった。ただ一つ、君の目元には、なぜか[漢字]隈[/漢字][ふりがな]くま[/ふりがな]が出来ていた。
「否定されるのは承知で、キミに話しかけた。でも……キミは、受け入れてくれたよね? 逃げたりしないってことは、肯定だと思ったんだ」
そうだ、僕は君を否定していない。肯定したんだ。そう言いたいだけなのに、僕は言えない。不甲斐なくて、申し訳なくて、涙が出そうだ。
「それで、次の日。次の日もキミが居た。私、その時も我慢ができなくてさ。キミに話しかけたの」
君はそう言って、悲しく笑っている。
「その時、キミは――笑ってくれたでしょ。あの時、私は誰かに受け入れてもらうって経験をしたことがなかった。憧れてたんだ、誰かに笑ってもらうってことが」
君はそう言うと、笑いながらも、静かに涙をこぼした。頬を伝う涙を、本当は拭いたかった。
ああ、君が喜んでくれるなら、君が心の底から笑ってくれるなら、僕はずっと笑っていよう。君のために、苦手な笑顔だって作ってみせるし、声だって……出して、出してみせる。
「ああ、どうしてだろ。この思いは我慢するって、ずっと前から決めてたのに……!」
君の悲しい声は、僕にだけ届いた。周りには誰も居ない。そして、小さな小さな風が吹いて、君の紺色のスカートと、黒い髪がふわりと小さくなびく。それと同時に、君の涙も、ふわりとどこかに旅立っていった。
「ねぇ……。いつも、お話聞いてくれてありがとうね。すごく……すごく、嬉しかった!」
えへへ、と照れくさそうにはにかむ君は、頬と目の[漢字]縁[/漢字][ふりがな]ふち[/ふりがな]を赤くして、最後に手を振った。やっぱり手は細かった。
「名前も分からないけど、本当にキミと会えて嬉しかったよ。それじゃあ、またね」
君は振り向く。そして、小さな歩みで、どこかへ行こうとする。
ああ、君がどこかに行ってしまえば、僕らはもう会えないことだろう。まだ話していない思いが、たくさんあるのに。
本気で願う。声を、声を出したい。僕は、君のためならば出せると誓ったのだ。
「……あ、待って」
声を出そうと口を開けた瞬間、君はまた振り返って言った。
「まだ、私の名前を言ってなかった……。いつか言おうと思ってたの」
君は、一回涙を指で拭って、その後深呼吸をした。そしてその後、君は口を開いてこう言った。
「私――[漢字]桜木[/漢字][ふりがな]さくらぎ[/ふりがな]あおい、っていいます」
その時僕は、初めて君の――桜木さんの名前を知った。そんな名前だったんだ、知れてよかったなんて、驚きと喜びの感情が混ざる。
「それじゃあ、今度こそ本当のバイバイだね。……またね」
そして、今度こそ君が振り向く。ああ、この後、僕と君は会えなくなるのか。そう思った途端、一つの思いが溢れ出した。
このままなんて嫌だ。
まだ、君に話してない事なんてたくさんある。全部なんて言わない。せめて、さようならと僕の名前を、君に託しておきたいだけだ。
贅沢なんて言わない、言わないから。
出ろ、出てくれ、僕の声――!
「……あの……」
その時、僕の喉から出たのは、老人のようにしわがれた声だった。
「え……?」
桜木さんは驚いて、目を見開きながら、僕の方をまた振り向く。当たり前だ。今の今まで喋らなかったやつが、急にしゃがれた声を出してくるんだから。
「キミ……?」
「えっと……さ、ようなら……。また、ね……」
思った通りの発声は出来なかった。でも、これだって当たり前だ。ずっと声を出していなかったのだから。
だから、今はこれで良い。
「あ、あと……僕の、名前は――」
そこまで言うと、桜木さんがさっきよりも大粒の涙を流して、僕に近づいてきた。
「あぁ、あぁ……!」
桜木さんの涙はすぐ、繊細な春の風で飛んでいってしまう。でも、それよりも僕が注目していたのは、君の顔と次に言う言葉だった。
「最後にお話できたの……。すごく、すごく嬉しいよ」
やっと、分かった。今君が流している涙は、さっきと同じものじゃない。君は多分、嬉しくて泣いているんだ。さっきの、寂しくて悲しい涙じゃない、純粋で綺麗な涙なんだ。
「あ、ねぇ! 話遮っちゃった、キミのお名前は?」
君は涙を拭いて、笑顔でそう言う。君の笑顔は、いつもよりも引きつっていた。でも、多分それは悪い意味じゃない。少なくとも、僕はそう信じていたい。
「僕の、名前は……。[漢字]最上快声[/漢字][ふりがな]もがみかいせい[/ふりがな]」
[中央寄せ]***[/中央寄せ]
あれから、数年の月日が経った。
あの時、まだ十六だったあおいは、二〇歳になった。そして、あの時二五歳だった僕も、あっという間に二九だ。
そんな僕らはあの後、少しだけ話をした。あのときの僕の声は、かなりひどかったが、あおいはそれでも、真剣に話を聞いてくれた。
その中で、あおいの引っ越し先を聞いた時は驚いた。なぜなら、あおいの引っ越し先は、実家がある僕のふるさとだったからだ。
『なーんだ、最後じゃないね!』
そういった、あの時のあおいの顔を、僕はまだ忘れない。あおいは、とても安心しきった顔をしていた。
そして、実家に帰りたかった僕は、桜木家と一緒に、この場所へと帰省した。そしてそれから、あっという間に四年が経ったのだ。
「いやー、やっぱりここは自然が多くて、すごくいい場所だ。仕事も絶好調だよ」
「快声さん、お仕事すごく頑張ってるもんね」
あおいは、大きくなったお腹をさすりながら、道を歩く。いつも、転んでしまいそうでひやひやするが、僕が片手を握って歩いているのと、ちょっとした慣れがあるので、案外大丈夫だらしい。
「子供、大きくなったなー。ねぇ、あと二ヶ月で生まれるんだよ」
「時間が経つのは早いね。ちょっと前まで、スマホの電波が無いって僕の家に押しかけてきた君が……。まさかこうなるなんて」
「それは言わないで!」
ちょっとした話をしながら、僕とあおいは笑う。君は僕のために、僕は君のために笑う。
「あ、ねぇ見て! あれが青い桜だよ。あそこに生えてる!」
「えっ、こんなところに生えるんだ。見たことないけど……」
「ねぇ、行ってみよって!」
もう妊婦なのに、あおいは初めて会った時みたいに、僕をしっかりと引っ張る。走ると危ないなのだが……まぁいいだろう。
僕らは、しっかりと繋ぎあっているのだから。
相変わらず今日も、めげずに僕に話しかける君。
僕はいつも、君に声をかけない。それでも何故か君は、ずっとずっと、僕に話しかけてきた。
「青い桜ってね、実は存在するんだよ! 知ってた?」
君はいつも、笑顔で話しかけてくる。でも僕は知っている。君は、僕の名前も年齢も、なんにも知らないってこと。なんでそれを知ってるのかって言うと、僕も、君の事を全く知らないから。お互いに知らない事だらけだけれど、それでも君は話しかけてくる。でも、それが怖くはない。
「ねぇ、できたらさ、キミと見に行きたいな。青い桜」
君は、無邪気な子供や小動物みたいに、毎日僕のそばをついて回る。いつも左側から話しかけてくる君は、紺色のブレザーの制服を着ている。
「……あ、私もう行くね! バイバイ、また今度ね!」
前に出て、僕に手を振って、君は今日も、遠くの方の駅へと向かっていく。君が僕に振るその手はいつも、同年代……であろう、普通の女の子より、ずっと細くて長かった。
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僕は[漢字]失声症[/漢字][ふりがな]しっせいしょう[/ふりがな]だ。
失声症というのは、声が出なくなる病気の事。原因は人によって様々だが、僕の発症理由は、ストレスだった。
職場でいじめられていた僕は、ある日、母が精神疾患を持っている事を誰かから言いふらされた。その噂が広まったせいで、いじめがかなりエスカレートしてしまったのだ。
今は退職して、手当金と貯金で生活している。だがしかし、一度負ってしまった病は、もう二度と治せない。僕は今、失声症の他に、うつ病も併発している。
毎日、なぜこんな事になったのかと考える。できる事なら、仕事がしたかった。
だけど、母は憎めなかった。母は、苦労しながら僕の事を育ててくれた。僕にとって、世界で一番大切で、世界で一番やさしい人だったから。
「はぁ……」
君と出会った秋の日、僕は近くの公園のブランコを、放心状態になりながら漕いでいた。よくよく考えれば、成人男性が秋の夕方にブランコ漕いでるなんて、かなり変な風景だろう。
子供は、この公園には近づかない。遊具などは揃っているが、なにせここらへんには、子供が全く居ないのだ。たまに観光客が、連れてきた子供をここで遊ばせるが、それだけ。寂しい所だった。
そんな寂しい公園は、秋になると虫の音色が目立つ。コオロギかなにかが、クルルとどこかで鳴いているのだ。僕はブランコを漕ぎながら、そんな虫たちの声を、ただ黙って聞いていた。
その夕方を変えてくれたのが、君だった。
「あ、キミもこの公園使うの? 良いよね、秋になるとさ、虫の声が目立つから」
急に隣のブランコに座ってきた君は、今と変わらず、紺色のブレザーを着ていた。最初に、君を見た時は驚いた。君は急に話しかけてきたし、何より、君はそこらの女子よりも可愛かったから。
つやつやとした、背中までの黒い髪は、橙色の夕焼けを反射して、静かに光っていた。ビー玉のように輝くその瞳は、僕のことをしっかりと捉えて、いつも離してくれない。
秋の夕方。春よりもずっとずっと濃い色をしたあの夕方に、僕と君の人生は交わった。
[中央寄せ]***[/中央寄せ]
それから、君はずっと僕に話しかけてくるようになった。君と僕は、外出の時間が合うみたいだから、君は毎日僕に話しかけてきた。当然だけど、僕は君と話ができないので、ただ君の話を聞いているだけ。
「今日寒いね。キミは大丈夫?」
冬になると、君は毎日「寒い」と言い続けていた。それと同時に、僕の心配もしてくれていた。
「あー、冬になるとみかんが食べたくなるね! 私のお姉ちゃんの彼氏さんのおじいさんがね、みかん作ってるんだって! この時期になると、毎年みかんのおすそ分けしてくれるんだよね、楽しみだなー!」
僕はいつしか、君の話を聞くのが、楽しみになっていた。君の話を聞くためだけに、毎日外出をして。君の明るい声を聴くために、本当は好きじゃないはずの明るい日差しを浴びた。
そんな僕の願いに呼応するように、君は日を追うごとに、どんどん明るくなって、そして綺麗になっていった。最初に会った時も、君は明るくて素敵な人だったけど、その時以上に、綺麗になった気がする。
でも、僕はそれを言わない。言えないというのもあるけど、成人男性が女子高生に「綺麗になった」なんて言ってしまえば、大問題だろう。今の時点でも、よく周りから変な視線を浴びるのに。
だから僕は、君への思いを、必死に隠した。
[中央寄せ]***[/中央寄せ]
そんなある日。青い桜の話をした翌日のことだ。
君は、汗をかいていて、息切れをしながらやってきた。今まで、君はゆったりと来ていたものだから、僕もとてもびっくりしてしまった。
「ご、ごめんね……。急いでたんだ」
謝罪なんてしなくていいのに、と言いたかったけど、やっぱり今も、声は出てこない。
君のために、声を出せたら良いのに。脳にそんな願いが浮かぶ。
「……あのさ、ちょっと大事なお話するね」
君は急に、深刻そうな顔をした。何かがあったのだろうかと、とても心配になるが、それは君の話を聞いてから判断しよう。
「私、引っ越しする事になったの」
青天の霹靂だった。
「前にさ、お姉ちゃんに彼氏さんが居るってお話したでしょ? お姉ちゃんさ、その彼氏さんと結婚する事になったの。それの関係で……我が家はお引越し。ここじゃない、すごく遠い場所に住むことになったんだよね」
君の話を聞いて、僕はなんだか、すごく悲しくなった。どうしてだろう。僕と君の距離は、ずっとずっと遠いはずなのに。
そして、話し終わったと思ったのか、君は一回黙りこくる。そして僕は、不安をかき消すために深呼吸をする。でも、吸った空気はなぜか、とてもまずかった。
「…………あのさ」
突然、君はもう一回話し出す。さっきまで左側に居た君は、僕の前に出て、長めに息を吸って、話を始めた。
「いつも……お話し聞いてくれて、ありがとう。すごくさ、嬉しかったんだ」
嬉しかったのは僕の方だ、そう言いたい気持ちでいっぱいだった。
君が話しかけてくれたから、君がいつも笑顔で居てくれたから、僕はなんとか生きることができた。重いことを言うが、君が居なければ、多分僕は今生きていないと思う。
「あのね、ずっと言えなかったけど……。私は」
君は、何かを言おうとした直前、息を詰まらせた。
「ご、ごめん……。やっぱり、言おうとすると、どうしても……」
無理しないで、と言いたい。
いや、違う。言いたいことはそれだけじゃない。君に、沢山の事を言いたい。感謝も、些細な恨み言も、嘆きも、全部君に伝えたい。頑張って声を出そうと、声帯に力を入れてみるが、やっぱりダメだ。声は、出せなかった。
「……いや、こんなの言い訳だね。ごめんね。ちゃんと言うよ」
うつむいたまま、君はそう言う。
「私ね……ADHDなの。多動性障害ってやつ。私は、ちょっとだけ症状が重いの」
君はそう言って、困ったようにはにかんだ。
多動症、名前は聞いたことがある。でもまさか、君がそうだなんて知らなかったし、全く分からなかった。君はただの、同年代より綺麗な明るい女の子だと思ってたから。
でも、君からそう聞くと、なんだか安心してしまう自分が居る。君も、僕と同じ「出来ない人」なんだと思うと、すごく性格が悪い思考なのは承知の上で、すごくやすらかな気持ちになってしまう。
「キミに話しかけたのもさ、なんか、抑えきれなかったんだよね。あの時は、とにかく誰かと話したいって思ってたから」
そう言うと、君はやっとうつむくのをやめて、頭を上げて前を向いた。あの夕方の時と、顔はほぼ全く変わっていなかった。ただ一つ、君の目元には、なぜか[漢字]隈[/漢字][ふりがな]くま[/ふりがな]が出来ていた。
「否定されるのは承知で、キミに話しかけた。でも……キミは、受け入れてくれたよね? 逃げたりしないってことは、肯定だと思ったんだ」
そうだ、僕は君を否定していない。肯定したんだ。そう言いたいだけなのに、僕は言えない。不甲斐なくて、申し訳なくて、涙が出そうだ。
「それで、次の日。次の日もキミが居た。私、その時も我慢ができなくてさ。キミに話しかけたの」
君はそう言って、悲しく笑っている。
「その時、キミは――笑ってくれたでしょ。あの時、私は誰かに受け入れてもらうって経験をしたことがなかった。憧れてたんだ、誰かに笑ってもらうってことが」
君はそう言うと、笑いながらも、静かに涙をこぼした。頬を伝う涙を、本当は拭いたかった。
ああ、君が喜んでくれるなら、君が心の底から笑ってくれるなら、僕はずっと笑っていよう。君のために、苦手な笑顔だって作ってみせるし、声だって……出して、出してみせる。
「ああ、どうしてだろ。この思いは我慢するって、ずっと前から決めてたのに……!」
君の悲しい声は、僕にだけ届いた。周りには誰も居ない。そして、小さな小さな風が吹いて、君の紺色のスカートと、黒い髪がふわりと小さくなびく。それと同時に、君の涙も、ふわりとどこかに旅立っていった。
「ねぇ……。いつも、お話聞いてくれてありがとうね。すごく……すごく、嬉しかった!」
えへへ、と照れくさそうにはにかむ君は、頬と目の[漢字]縁[/漢字][ふりがな]ふち[/ふりがな]を赤くして、最後に手を振った。やっぱり手は細かった。
「名前も分からないけど、本当にキミと会えて嬉しかったよ。それじゃあ、またね」
君は振り向く。そして、小さな歩みで、どこかへ行こうとする。
ああ、君がどこかに行ってしまえば、僕らはもう会えないことだろう。まだ話していない思いが、たくさんあるのに。
本気で願う。声を、声を出したい。僕は、君のためならば出せると誓ったのだ。
「……あ、待って」
声を出そうと口を開けた瞬間、君はまた振り返って言った。
「まだ、私の名前を言ってなかった……。いつか言おうと思ってたの」
君は、一回涙を指で拭って、その後深呼吸をした。そしてその後、君は口を開いてこう言った。
「私――[漢字]桜木[/漢字][ふりがな]さくらぎ[/ふりがな]あおい、っていいます」
その時僕は、初めて君の――桜木さんの名前を知った。そんな名前だったんだ、知れてよかったなんて、驚きと喜びの感情が混ざる。
「それじゃあ、今度こそ本当のバイバイだね。……またね」
そして、今度こそ君が振り向く。ああ、この後、僕と君は会えなくなるのか。そう思った途端、一つの思いが溢れ出した。
このままなんて嫌だ。
まだ、君に話してない事なんてたくさんある。全部なんて言わない。せめて、さようならと僕の名前を、君に託しておきたいだけだ。
贅沢なんて言わない、言わないから。
出ろ、出てくれ、僕の声――!
「……あの……」
その時、僕の喉から出たのは、老人のようにしわがれた声だった。
「え……?」
桜木さんは驚いて、目を見開きながら、僕の方をまた振り向く。当たり前だ。今の今まで喋らなかったやつが、急にしゃがれた声を出してくるんだから。
「キミ……?」
「えっと……さ、ようなら……。また、ね……」
思った通りの発声は出来なかった。でも、これだって当たり前だ。ずっと声を出していなかったのだから。
だから、今はこれで良い。
「あ、あと……僕の、名前は――」
そこまで言うと、桜木さんがさっきよりも大粒の涙を流して、僕に近づいてきた。
「あぁ、あぁ……!」
桜木さんの涙はすぐ、繊細な春の風で飛んでいってしまう。でも、それよりも僕が注目していたのは、君の顔と次に言う言葉だった。
「最後にお話できたの……。すごく、すごく嬉しいよ」
やっと、分かった。今君が流している涙は、さっきと同じものじゃない。君は多分、嬉しくて泣いているんだ。さっきの、寂しくて悲しい涙じゃない、純粋で綺麗な涙なんだ。
「あ、ねぇ! 話遮っちゃった、キミのお名前は?」
君は涙を拭いて、笑顔でそう言う。君の笑顔は、いつもよりも引きつっていた。でも、多分それは悪い意味じゃない。少なくとも、僕はそう信じていたい。
「僕の、名前は……。[漢字]最上快声[/漢字][ふりがな]もがみかいせい[/ふりがな]」
[中央寄せ]***[/中央寄せ]
あれから、数年の月日が経った。
あの時、まだ十六だったあおいは、二〇歳になった。そして、あの時二五歳だった僕も、あっという間に二九だ。
そんな僕らはあの後、少しだけ話をした。あのときの僕の声は、かなりひどかったが、あおいはそれでも、真剣に話を聞いてくれた。
その中で、あおいの引っ越し先を聞いた時は驚いた。なぜなら、あおいの引っ越し先は、実家がある僕のふるさとだったからだ。
『なーんだ、最後じゃないね!』
そういった、あの時のあおいの顔を、僕はまだ忘れない。あおいは、とても安心しきった顔をしていた。
そして、実家に帰りたかった僕は、桜木家と一緒に、この場所へと帰省した。そしてそれから、あっという間に四年が経ったのだ。
「いやー、やっぱりここは自然が多くて、すごくいい場所だ。仕事も絶好調だよ」
「快声さん、お仕事すごく頑張ってるもんね」
あおいは、大きくなったお腹をさすりながら、道を歩く。いつも、転んでしまいそうでひやひやするが、僕が片手を握って歩いているのと、ちょっとした慣れがあるので、案外大丈夫だらしい。
「子供、大きくなったなー。ねぇ、あと二ヶ月で生まれるんだよ」
「時間が経つのは早いね。ちょっと前まで、スマホの電波が無いって僕の家に押しかけてきた君が……。まさかこうなるなんて」
「それは言わないで!」
ちょっとした話をしながら、僕とあおいは笑う。君は僕のために、僕は君のために笑う。
「あ、ねぇ見て! あれが青い桜だよ。あそこに生えてる!」
「えっ、こんなところに生えるんだ。見たことないけど……」
「ねぇ、行ってみよって!」
もう妊婦なのに、あおいは初めて会った時みたいに、僕をしっかりと引っ張る。走ると危ないなのだが……まぁいいだろう。
僕らは、しっかりと繋ぎあっているのだから。
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