伏せる
勉強は好きではない。運動も好きではない。だけど、沢山の人間の中でも特に優れたものになりたくて、母の期待にできるだけ応えたくて、どんなものでも貪りつくように、飢えた獣のように全てを独占したかった。その獣は、たとえ狩の仲間でも分け与えたりはしなかった。どんなに細かい肉片でも食らいついて離さなかった。それは私のものだとでもいうようにーーーー見た目は澄ましこんでいても、そのケダモノの腹の中は荒々しい欲望でいっぱいで、かろうじて、今まで食らいついてきた肉片で満たされていた。その獣の周りには沢山の動物がいつも纏わりついていた。老いたものも、若きものでも、まるでその獣を信仰しているように甘ったるい視線を投げかけていた。当人の獣でさえも、そうした者に牙を向かず、猫をかぶりながらも、満たされた日々を送っていた。そんなとき、その獣の前にーーー動物達の前にーー1匹の兎が、あらわれた。兎はその獣とかなり話が合い、獣は徐々に兎に心を開いていった。それからというもの、2人はいつでも一緒にいた。美しくても体格の大きく、弱きものから自然の摂理に従って食していく獣と、か弱く小さい兎は他の動物から見ても不釣り合いだったが、2人はいつまでもいつまでも一緒にいた。それが心地良かったからだ。馴れ馴れしいわけではないが、お互いの気持ちをしっかりと理解し、側に居る関係は、獣にとっても兎の存在が愛おしく思えるほどだった。兎の前では、獣でも被っていた猫の皮を外し、一匹の動物としていられたのだった。草食の兎と肉食の獣の姿はもう動物達の間では見慣れたものだった。次第に、動物達もよそ者の兎と打ち解けるようになっていった。獣はそれが嬉しかった。自分の愛するものが、友達が、みんなの輪の中に入っていけるのは、喜ばしいことだと思っていた。兎は人懐っこい性格だった。でも、ただ単純にお人よしなわけではなく、少し影があり可憐な姿が目をひいた。そして、話の聞き上手だった。いつでも動物の悩みを聞いた。何か的確なアドバイスをくれるわけでは無かったが、まるで自分のことのように喜怒哀楽を示し相槌を打ってくれ、一緒に考えてくれる姿に動物達は虜になった。そして、兎は話上手でもあった。誰かの悪口や暴力的な言葉は蜜の味でも兎は決してそういった言葉を使わなかった。そんな姿に獣も最初は惚れ込んだのだが、だんだん自分より沢山の動物を虜にし皆から必要とされる兎が憎らしくなっていった。最初はその群衆は私のものだった。期待や羨望の眼差しも私のものだった。それに、最初は私を慕ってくれた。私だけを慕ってくれた。こんな沢山の動物達に必要とされる者では無かった。最初こそ全て自分のものだった。動物達も、兎自身も。全部全部ーーーそんな沢山の感情が獣を襲った。ただただ恐ろしかった。今まで仲良くしてきた友達を憎いと思うだなんてーー。自分が恐ろしかった。兎がーーーーーー恐ろしかった。最初こそ綺麗な可憐な花だと思っていたものは、自分にとっては毒を持つ彼岸花だった。許せない許せない許せない許せないーーーーあなたは私にとっては特別だったのにーーーー何よりも大事にしていたのにーー兎にとっては、「ただの動物」の一匹に過ぎなかったように感じた。自分のほうが大きいのに急に兎の方が大きく感じた。いや、自分のほうがちっぽけだったのだ。獣は怒り狂った。喚いた。憎んだ。憎悪が膨れ上がった。
悲しかった。ーー悲しかった。それからは嵐のようだった。いや、嵐の前の静けさと言うべきか。ある日、獣は兎を連れ出した。「森の中に、赤く実った木苺があるんだよ。そこは泉の湧くとても綺麗な場所なんだよ。」ーー兎はとても喜んだ。この頃、獣は自分や動物達を遠巻きに眺めているだけだったから。久しぶりに2人は森に着くまでに、沢山沢山話をした。相変わらず兎は話し上手であり、聞き上手だった。獣はいつもより、話さなかった。ただただ、濁ったガラス玉のような目で兎を見つめていた。見つめていたーーーーーーーーーー森に着いた。
「とっても綺麗な泉だろう。それに、これほどまでに大きく、艶やかな木苺はないぞ。」獣は抑揚のない声で言った。淡々と述べた。兎はいつもとちょっと違う獣の姿が、少し気になったが、獣のことだから悩みがあったら自分に話してくれるだろう。と思っていた。だって友達だしね。その間獣は黙ったままだった。兎は獣を少しでも元気づけるために、一際大きくて艶やかな木苺を獣に渡そうと短い手を必死に伸ばした。そして、木苺を手にし、獣の方を振り返った。その時ーー自分の頬にもの凄い衝撃が伝わった。目も開けていられなかった。木苺が弾け飛んだ。木苺の赤い汁が兎の毛並みに点々とシミをつくった。だが、それは木苺のものでもあり、全く別のものでもあった。自分の「それ」がべったりと獣の爪に付いていたことで兎はようやく理解した。そのあと獣は唸り声をあげて兎に噛み付いた。あまりにも素早い獣の動きは、空気に触れてすぐに溶けた。最後の最後でもーー自分が最後と思った瞬間でもー兎は獣にあの日のような、親友に壊れてしまいそうな笑顔を向けていた。ただ、悲しいことに、自分に向けられていたのは、鋼のような牙だったーー。
ーーーーーーーはっと気づいた。いつのまにか、夜になっていた。あれほど高く登っていた太陽は森の木に囚われて、代わりに水溜まりのような月が頭上にあった。獣はゆっくりと身を起こした。あたりには今まで自分がやった惨劇の後が残っていた。木苺の汁とドロドロの血が土に染み付いていた。そこには変わり果てた「元友人」の姿があった。白く緩やかな純白の毛は真っ赤に染まり、こびりついた血でカサカサになっていた。その姿にはかつて、命があった動物のようには見えなくて、獣はもう動かない、だらりと垂れた首を元に戻した。今まで憎いと思っていたーー異常な程に憎み続けていた相手の命の火が目の前で、こうあっけなく消えてしまったのに、爽快感や達成感は浮かんでこなかった。そして、獣はもう開かない瞼をそっと無理矢理、それでも優しく開けた。ーー死んだ。ーーー死んだ魚のような目。爪を引っ込めると、ぱたんと瞼は自然に、閉じた。獣は泉に歩み寄った。静かにーー静かに。そして兎の亡骸をぽちゃんと液体の中に落とした。どぷんーーー。月に照らされ、白銀の色をした水は兎の痛々しい身体を包み込んだ。そして、こびりついた個体の血液が緩やかに液体に戻っていった。螺旋を描いて、DNAの形のように。透明な水に赤が混じっていく。「ーー綺麗だ。」獣は思わずそう呟いた。月に照らされた泉で、ホルマリン漬けのように、ガラス瓶に閉じ込められたように。兎は妖精のようにそこに眠っていた。月光に照らされてーー。獣は背を向けた。今まで兎と歩いてきた道を、1人で戻っていった。行きはよいよい 帰りは怖い 通りゃんせ 通りゃんせーーー。
ーーーーーーー獣は月が照らす道をゆっくりと帰っていった。オンオンと泣きながらーー。
私は獣。あの子は兎。そうやってあの子を私は心の中で殺した。
今日も雨が降っていた。今日もーー変な夢を見た。あの子によく似た兎のぬいぐるみ、テトを見つめた。窓の外は雨が降っていた。それはあの夢の泉のようでもあり、獣が流した涙のようにも見えた。
悲しかった。ーー悲しかった。それからは嵐のようだった。いや、嵐の前の静けさと言うべきか。ある日、獣は兎を連れ出した。「森の中に、赤く実った木苺があるんだよ。そこは泉の湧くとても綺麗な場所なんだよ。」ーー兎はとても喜んだ。この頃、獣は自分や動物達を遠巻きに眺めているだけだったから。久しぶりに2人は森に着くまでに、沢山沢山話をした。相変わらず兎は話し上手であり、聞き上手だった。獣はいつもより、話さなかった。ただただ、濁ったガラス玉のような目で兎を見つめていた。見つめていたーーーーーーーーーー森に着いた。
「とっても綺麗な泉だろう。それに、これほどまでに大きく、艶やかな木苺はないぞ。」獣は抑揚のない声で言った。淡々と述べた。兎はいつもとちょっと違う獣の姿が、少し気になったが、獣のことだから悩みがあったら自分に話してくれるだろう。と思っていた。だって友達だしね。その間獣は黙ったままだった。兎は獣を少しでも元気づけるために、一際大きくて艶やかな木苺を獣に渡そうと短い手を必死に伸ばした。そして、木苺を手にし、獣の方を振り返った。その時ーー自分の頬にもの凄い衝撃が伝わった。目も開けていられなかった。木苺が弾け飛んだ。木苺の赤い汁が兎の毛並みに点々とシミをつくった。だが、それは木苺のものでもあり、全く別のものでもあった。自分の「それ」がべったりと獣の爪に付いていたことで兎はようやく理解した。そのあと獣は唸り声をあげて兎に噛み付いた。あまりにも素早い獣の動きは、空気に触れてすぐに溶けた。最後の最後でもーー自分が最後と思った瞬間でもー兎は獣にあの日のような、親友に壊れてしまいそうな笑顔を向けていた。ただ、悲しいことに、自分に向けられていたのは、鋼のような牙だったーー。
ーーーーーーーはっと気づいた。いつのまにか、夜になっていた。あれほど高く登っていた太陽は森の木に囚われて、代わりに水溜まりのような月が頭上にあった。獣はゆっくりと身を起こした。あたりには今まで自分がやった惨劇の後が残っていた。木苺の汁とドロドロの血が土に染み付いていた。そこには変わり果てた「元友人」の姿があった。白く緩やかな純白の毛は真っ赤に染まり、こびりついた血でカサカサになっていた。その姿にはかつて、命があった動物のようには見えなくて、獣はもう動かない、だらりと垂れた首を元に戻した。今まで憎いと思っていたーー異常な程に憎み続けていた相手の命の火が目の前で、こうあっけなく消えてしまったのに、爽快感や達成感は浮かんでこなかった。そして、獣はもう開かない瞼をそっと無理矢理、それでも優しく開けた。ーー死んだ。ーーー死んだ魚のような目。爪を引っ込めると、ぱたんと瞼は自然に、閉じた。獣は泉に歩み寄った。静かにーー静かに。そして兎の亡骸をぽちゃんと液体の中に落とした。どぷんーーー。月に照らされ、白銀の色をした水は兎の痛々しい身体を包み込んだ。そして、こびりついた個体の血液が緩やかに液体に戻っていった。螺旋を描いて、DNAの形のように。透明な水に赤が混じっていく。「ーー綺麗だ。」獣は思わずそう呟いた。月に照らされた泉で、ホルマリン漬けのように、ガラス瓶に閉じ込められたように。兎は妖精のようにそこに眠っていた。月光に照らされてーー。獣は背を向けた。今まで兎と歩いてきた道を、1人で戻っていった。行きはよいよい 帰りは怖い 通りゃんせ 通りゃんせーーー。
ーーーーーーー獣は月が照らす道をゆっくりと帰っていった。オンオンと泣きながらーー。
私は獣。あの子は兎。そうやってあの子を私は心の中で殺した。
今日も雨が降っていた。今日もーー変な夢を見た。あの子によく似た兎のぬいぐるみ、テトを見つめた。窓の外は雨が降っていた。それはあの夢の泉のようでもあり、獣が流した涙のようにも見えた。
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